卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

昨日みた夢を、君は知らない。

 半年が過ぎていた。

 この半年の間、わたしは書くことがいつも通りにあって、だからこそひとつも文字にできなかった。同じだけの容量と質量をもって過ぎていく時間に辟易し、失望を覚えていたのかもしれないし、肉まんの中心部の熱さにひどく恐怖を覚えていたのかもしれない。

 毛布の上に羽毛布団だと思い込んでいた世界が、実は羽毛布団の上に毛布だった、みたいな不確かさ。

 それはつまり、小学生なのにべっこうの眼鏡をしていることの良し悪し、ファッション性や金銭感覚、もしくは地球環境的ななにかに対する配慮のようなもの、そういうことを含めてありなのか、磯貝という苗字なのに山育ちだった友人の理不尽さや、よくあることだが新妻という名前の生涯独身な彼。

 

 なにやらわたしの立つ地盤が妙に揺らいでいるように感じたのだ。

 小籠包という食べ物は何のためにあるのか。もんじゃ焼きもだ。猫を絶滅させるためか。でなければなんなのだと、ドリアという鉄の器で運ばれてくる凶器はなんなのだと。やはり猫だけを殲滅したいのかと、わたしは泣いていたのだ。

 

 この頃強く疑問に思うことがある。

 わたしの姉が、「ここのウニを食べたら東京なんかじゃウニを食べれなくなるからよって出されてね、それ以来ミョウバンの臭いのするウニはダメで~」って嘆いていたのだ。

 まるで理解ができない。

「他じゃ食べられないくらいおいしい」と出されたら、わたしなら当然「では結構です」だ。

 いい迷惑ではないか。

 なぜその店でしか食べられなくなるような、そんな薬物のような食べ物を、高いお金を払って食べるのか、まるでわからないのだ。アスカだ。ライオネスじゃないほうのアスカだ。

 お茶か? お茶だ。

 おっさんの言う、「味のする水じゃないとな~」というビールみたいなものか。

 

 そんなことはどうでもいい。ウニだ。特別なおいしいウニだ。

 ほどほどにおいしいものを、どこででも食べられれば十分ではないか。なぜ特上を指向するのか、意味がわからないのだ。

 同僚の年配のおばちゃんもそんな類だ。

「〇〇のパンがおいしいっていうから取り寄せたのに◎◎のパンに比べたらさ、食べられたもんじゃないよ。全然おいしくないもの」

 という。

 どちらも高級なパンで、それこそわけがわからないと思うのだ。ほんとうはどちらもおいしいのだけれど、その序列をはっきりさせるため、もしくはわたしって味の違いが判るのって、その主張のために一方をこき下ろしているようにしか思えないのだ。

 

 なんともつまらないことだと感じてしまう。

 鬼ヶ島に行ったけど温泉卵だけ食べてきたみたいな。

 オーストラリアに行くはずが近所でグレートババアが岐阜的な催しを見てくるような。グレートババアがビーフ焼いちゃったみたいな。

 なんだろうか。

 自ら選択肢を狭めてしまうような生き方、選択の仕方というのが、理解できないのだ。

 心の中にある、ひっそりとある大切なもの。

 例えばわたしのみた夢を、君は知らない。

 知らなくていいのだ。だってわたしだけがみた、ひとつだけの大事な夢なのだから。