卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

伊豆の夜

 海が赤や黄や緑に滲んだ。
 穏やかな波に光が揺れて、上空で舞うきらびやかな花火とはまた違う、とても深淵で孤独な光たちが、海面に漂っていた。
 波というものは風が引き起こすものだったか。
 わたしは膝を抱いたまま、テトラポッドに打ち付ける波の音を聞きながら思い返していた。理科の教室の、髭を生やしたとても人気のあった教師の言葉を、波は風が引き起こす、つまりものごとには遠因があって、わたしが淋しいと感じる思春期のわたしは、その淋しさの原因を探していた。
 懐かしい理科の教室に差し込む太陽の角度まで、その匂いまで思い出せそうな気がした。だが一向に、当時わたしをとらえていた淋しさも、そして今こうしてひとり、美しい花火を見て、その美しさゆえに対比されるわたしの醜さが際立って、淋しさに襲われる。
 たった二日前のことだった。
 家を飛び出して、衝動的に車のキーを手にしていたから、カーポートに向かった。運転席に身を沈めると、少しだけ心が落ち着いて、乗ったのだから発進しなければとハンドルを握って、さてどこへ? と考えているうちに、高速道路に乗って長く長く、なぜだかパーキングエリアで休むこともなく、走れるだけ走って、伊豆までやってきた。
 気がついたら伊豆だったというのも、おかしなものだと、運転席でわたしは苦笑した。苦笑してみて、その笑みは久しぶりのものだと知った。
 ずいぶん長い間、感情と直結して笑っていなかったことに気がついた。
 義母に抱き癖がつくからと、息子を取り上げられたときにも、わたしは「さすが子育てに慣れてますね」と愛想笑いをし、心に沸き起こるどす黒い、殺意にも似た強烈な嫌悪感を隠した。
 酒に酔って帰ってくる夫の、その悪臭に顔をしかめ、脱衣所に脱ぎ捨てられた靴下と、なぜだか香水のしみ込んだワイシャツに、眩暈を覚えるほどの怒りを感じた。
 しかしそんなものだと、主婦なんてものはその程度の価値しかないと、わたしは理解していたつもりだった。
 義母がおもちゃを買い与えて、息子のためによくないと夫に進言すれば、「あんなに楽しそうに遊んでんだからさ、目くじら立てんなよ」と返す。
「なんかおまえさ、この頃声が金属的。耳に響く」
 目も合わせずに夫は言った。
 調理中に息子がキッチンに入ってきて、興味深そうにフライパンの柄をいじり始めたので、「危ないでしょう! こっちに来ちゃ駄目!」と強く叱った。
 息子は泣きながら、義母のところへ走っていった。それを見て、なにかが切れた。わたしとこの家を繋いでいたなにかが音を立てて、切れた。
 翌日の深夜に、音ののない家の中から、音を残さずに、書き置きすら残さずに、出てきたのだ。ほんの数時間の、逃避の予定だったものが、もう三日目になる。
 初日はコンビニの駐車場で眠って、翌日はこの海の見える宿をとって、ぼんやりとビールを飲みながら海を眺めていた。
「明日は、お帰りですか?」
 仲居が澄んだ声で聞いてきて、その澄んだ声があまりに耳に心地よかったので、もっと彼女の声を聞きたいと思った。
「もう一泊、空いていますか」
「ええ。それに」
「それに?」
「明日は小さいけれど、花火大会があります。あの辺が見所です」
 彼女の細い指がさす先に、海に伸びるコンクリートの道があった。道の両側にはテトラポッドが並んでいた。
「ここのお客さんと地元の人くらいです。あの場所を知っているのは。多くは対岸の浜辺から見ますから。そっちは混雑しています」
「じゃあ、あそこで見させていただきます」
 ひとりで体育座りになって、闇に包まれると、本当にわたしはひとりなのかもしれないと思えた。いやむしろ、ひとりであることを忘れていた人生だったのだと、ひとりでないと偽ることが、家庭を築くことだったのかもしれないと、そう考えたところで唐突に、花火が上がった。
 シンプルな円を空に描いた。周囲から歓声が上がって、花火の爆発音と一緒に、闇に抵抗しているようだった。
 闇がわたしを侵食していくのがわかった。
 わたしの抱えていた淋しさは、誰にでもあるもので、そんなことにとらわれてはいけないのだ。
 花火の間隔はまちまちで、ときには四つも同時に上がることもあった。とにかく距離が近いので、夜空に咲く花は大きく、迫ってくる。
 財布の中にはまだ数万円はある。手は出していないが、夫名義のクレジットカードもある。携帯の電源は切ってあった。
 なぜ? と問われても、なぜわたしは逃げているのか、そもそも逃げているのか、どうしたいのか、帰るのか帰らないのか、なにも答えられそうもないからだった。
 義母の憤怒する顔が浮かぶ。
 眉間に青い血管を浮き上がらせる顔はとても醜いのに、その顔を義母は決して見ることはできない。
 そう考えると、口元が緩んだ。
 だってそういう醜い顔を、わたしだって浮かべているはずなのだ。
 歓声と爆発音と明滅する光たちが、夜に歯向かっている。
 無力なのに、わたしはそう口にして、少しだけ声を上げて笑った。


Netflix火花お題「夢と挫折」

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