卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

十一時間

 自然の作り出すコントラストは、偶発的な奇跡だといえる。
 夏子は少し肌寒い風に頬を撫でられながら、影絵のような島と赤と青が入り乱れた空に見入っていた。船はこれから二つの島を経由して、およそ十一時間後に東京に辿り着く。
 十一時間分の距離こそが、この二年間であったのだ。夏子はそう思った。メールは一瞬で夫とわたしを繋いだが、そこにはずいぶんと物理的な距離があった。夫も東京も、この海に隔てられて存在していたのだ。
「旦那さんは本土に残してきちゃったわけ?」
 宮原が素っ頓狂な声をあげた。性別が一緒ということもあって、島に来た頃は彼女が一番夏子の面倒を見た。彼女はダイビング好きが高じて、東京都の職員となるや早々に島へと移動希望を出した。以降は八丈島や小笠原などを渡り歩いているという。
「なによ。そんなに驚かないでよ。女だって単身赴任するでしょう」
「でも島に来るかなあ。仲悪いわけじゃないんでしょ?」
「悪くない。毎日電話してるし」
「なおさらここに来る意味がわからないなあ」
 まだ三十歳にもなっていない宮原は、快活に笑う。十も歳が離れているのに、学生時代の友人のように感じることもある。
 島へ赴任するのは、あくまで希望した職員のみだった。例外的に専門職でこちらへ来る人間もいる。見事に浅黒く日焼けした三浦は、農業という特殊な職種で、幾度か島へ赴任しなければならない。
 島に赴任したのは、確かに夫と距離を置きたいというのもあったのだが、さほど深刻なことだとは思っていなかった。夏子は三十数年を生きてきた中で、いくつもの恋をしてきた。若き日の淡い恋もあれば、一流のレストランや煌びやかなアクセサリーを贈られるような欲望の恋や、様々な恋があった。
 愛というものを、夏子はよく分かっていなかった。静かな感情、例えばこの人といると落ち着くのが愛ならば、夫を愛していると言えた。もっと動的な、夫と一体になりたいと願うような情熱が愛ならば、夫を愛していないともいえた。
 愛という不確かな感情はともかく、夏子と夫の間には確かな信頼関係があった。信頼というものは、ふたりが人生を共にするには十分な感情といえた。
 その信頼関係は夫婦となったときから今まで、少しも揺らいではない。むしろより強固なものとなった。だから夏子が島へ来たのは、夫との関係がどうこうというよりも、東京という街との距離感を再度保つためといえた。

 好きです。単刀直入に、昌哉は言った。
 彼も同じ東京都の職員で、この三宅支庁で最年少の若者だった。若者、と区分することを昌哉はなによりも嫌がったが、ひと回りも年齢が違えばもう別の人種だと、夏子は考えていた。
 その昌哉が島の生活に慣れてきた頃に、突然そう言ったのだった。
「聞いてますか」
 すべての台詞が棒読みだった。それは昌哉なりの緊張が、そうさせていたのかもしれない。
 半年を過ぎる頃から、自惚れではなく、彼の好意を感じてはいた。毎週のように行われる飲み会は、夏子が出席すると必ずついてきたし、至上命題のように夏子の隣に座った。仕事が終われば彼も庁舎を飛び出してきた。だからといって、なにがどうなるものでもなかった。何も起こらないし、そもそも何も始まらない。
「聞いてるけど、わたし結婚してるし」
「そういうことでなくて、好きだって話」
「分かるけど」
 分かるけど、分からないのだった。少なくとも夏子には、婚姻と好きという感情は、切り離して考えられる類のものではなかった。
 ヤブツバキの実が、あちこちに落ちていた。知らずに踏んでしまい、カタリと軽妙な音がして、足の裏に硬質な感触を得た。かつては島内に、ツバキ油を精製する工場があったという話を、なぜか思い出していた。
「夏子さんはなんでここに来たの?」
「言わなかったっけ? ちょっと都会に疲れて」
「ちょっと疲れただけでこんな遠くの島までくるわけ?」
「来たんだから仕方ないでしょう」
 夏子が僅かに苛ついて答えると、昌哉はふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした。

 島には三面だけテニスコートがあった。経験があろうとなかろうと、三宅島に配属されるとテニスをやる運命が用意されていた。
「体が開いてる。もっとボールを待って。それに打ったあといつまでもボールを追わない。相手を見る」
 係長の梅崎が、手厳しく指導をした。仕事中は柔和で、むしろ穏やかすぎて存在感がないほどの上司なのだが、ことテニスとなると別人だった。
「なぜ係長はテニスを?」
「性格が悪いから」
「悪い?」
「そう。テニスってさ、相手がミスするように打つ。それしかない。性格悪くないとできないスポーツでしょう」
 そう言って、梅崎は笑った。
 梅崎は学生の頃に関東大会に出場した経歴があった。生涯スポーツといわれるテニスは、五十歳を越えても十分にできるようで、梅崎のプレーはずば抜けたレベルを維持していた。
 昌哉も若くてよく走ったし、宮原はダイビングで培った腕力なのか、女性離れした球威を誇っていた。
「まあすぐに上達するよ。若いんだし」
「若いわけないでしょう。性格は悪いですけど」
「ならなおさらうまくなるよ」
 確かにテニスは意地の悪い競技だった。相手のコートに返すボールは、常に相手が打ち損じそうな、苦手なコースを意識して返すのだ。そしてミスによってポイントを取ったり、ミスをして打ち返したボールを打ち込まれてポイントを取られたり、常にミスを誘発するスポーツなのだった。
「え? テニスばっかりやってんの?」
 夫は驚いたものだった。夏子は元来運動が苦手で、内向的な性格だったのだ。それが炎天下でもラケットを振っているとなれば、驚かないほうがおかしい。
「そうなの。係長がテニス狂でさ、放っておけば毎日やりかねない」
「島ってそういうとこなの?」
「違うと思う」
 ほとんど毎日のように、夏子は東京に残った夫と話をした。通話もできるしメールもできるし、使わなかったがパソコンでチャットもテレビ電話もできる。ずいぶんと便利な世の中になったものだと痛感した。東京にいた頃も、メールはなんて便利なのかと感嘆したものだが、こうしてそれ以外に手段がない状況で通信機器を使うと、驚き以上の切実な思いがこみ上げるのだ。
「今年の正月はそっち行こうかな」
「え? いえ、わたしが帰るよ。人ごみが恋しいし」
「そうなの? あんなに嫌いだったのに」
 こっちへ来る、と聞いた途端に、なぜか昌哉の顔が浮かんだのだった。好きだと言われてからずいぶんと月日が流れたが、もちろん二人の間で何かがあったわけではない。今後もないのだが、しかし夫がここへ来て、場合によっては昌哉と会うことが妙に息苦しかったのだ。

 アカコッコが特徴的な声で鳴いた。羊歯類が足元をくすぐり、樹冠は陽光を浴びて輝いていた。
 宮原とは幾度もハイキングに出かけたが、その多くに昌哉もついてきた。
 火山のある三宅島は想像を越えた景色を、夏子に提供してくれた。鬱蒼とした森を抜けると、突然荒廃した火山灰に覆われた大地が現れたり、前触れもなく透き通った水を湛えた池が現れたりと、不思議な映像を見ているかのようだった。
「気持ちいいね」
 宮原が伸びをした。昌哉は基本的に無口で、やはり黙々と歩いている。どこか不機嫌にすら見えるのだが、彼の性格を徐々に知れば、単にシャイなだけだと理解ができる。
「風がいつも強いんだね」
 夏子が今気がついたように、言った。
「そうだね。風と雨の島って言ったら観光客は少なくなっちゃうね」
「あと火山の島ね」
「それ決定的だ」
 イメージとは裏腹に、三宅島は夏涼しく冬は暖かい。そして気温が三十度を超えることは、年に数日しかない。
「浅原くんはいつまで三宅にいるの?」
 宮原はそう尋ねた。
「満期までいますよ」
「そっか。そしたら東京に?」
「わかりません。結構こっちの暮らし気に入ってるんで」
 昌哉は豊かとはいえない表情で言った。彼はどういう経緯で島を希望してきたのか、夏子は少しだけ興味が沸いた。
「わたしなんかは海がすべてだからあれだけど、浅原くんなんて若いからつまらなくないの?」
「東京だって、ごちゃごちゃしているだけで」
 昌哉はそこで始めて笑った。
「本質的にはなにもないじゃないですか。むしろ島の方がある気がしますよ」
「なんか哲学的。若いのに」
 つい夏子はそんなことを口走った。
「若いって突き放さないでくださいよ」
「ごめん。つい」
「いいけど」
「島ってさ、閉鎖的だと思っていたけどそうでもないね」
 夏子は太陽に目を細めて言った。言ったそばから、その言葉の意味はよく理解できていたわけでないことに気がついた。
「海に向かって開いてるというかさ」
「意味分からない」
 宮原が失笑した。
「確かに。わたしも分からなくなった」

 八月は、レゲエの音色で幕を閉じる。海岸線に集まった人々は賑やかで、誰しもが笑顔で言葉を交わしている。異国のような華やかさに酔いしれながら、夏子はよく冷えたビールを流し込む。
「酒、強いね」
 昌哉は感心したような、呆れたような口調で言った。
 夏はもうしばらく続くのだが、この陽気なレゲエが止むと急速に島全体が秋に向かっているような錯覚を覚える。
「ねえ。夏子さん」
「はい」
 向き直ったその先に、真剣な顔つきの昌哉がいた。真剣さを通り越して、追い詰められたような切迫感が漂っていた。
「戻って、ここに来る前みたいに過ごしていくの?」
 夏子はその言葉の意味を考えた。それはこの島で過ごした二年間をなかったこととして生きるということだろうか。それは不可能だ。島での生活を踏まえ、わたしは雑多な東京という街と折り合いを付けるのだ。
「ううん。いろいろ考えたから。自然と人間と街と、わたしさ、距離感がおかしくなってたの」
「距離?」
「うん。東京って近づきすぎると裏切られるし離れすぎると取り残される気がするの。でも島にはそういうのがなくって」
「ない?」
 昌哉は表情を変えず、鋭く言葉を挟んできた。夏子は戸惑いを覚えた。まるで見当はずれなことを答えているような気がしてきた。
「島はもっと穏やかなのよ。来るものも去るものも拒まない。なにも否定しないし、ただ包み込んでくれる優しい存在かな」
「旦那とは、ずっと旦那とは暮らしていく?」
 そこで夏子は初めて昌哉と視線を合わせた。この返答は、一分も逃げてはいけないのだと分かっていた。
「ええ。もちろん。わたしは夫を信頼しているし、それはこえからも揺るがないから」
 昌哉は震えているようにも見えた。瞳は燃えるようにたぎっているが、ちょっとした衝撃で崩れてしまうような危うさを秘めていた。
 手首に体温を感じて、それが昌哉に握られているからだと思い至るのに時間を要した。動けないでいる夏子は、視線だけを昌哉に移した。
「ごめん。これだけ、これだけでいいから」
 返事をしようと思うのだが、何を言えばいいのか分からなかった。振り払うこともできたが、振り払う理由はないように感じた。手のひらではなく手首を握ってくる昌哉は、彼らしくもあり、それが痛々しくもあった。
 彼はじっと夏子の手首を握って、それから小さく、さようなら、と言った気がした。

 最後の日は、最初の日とさして変わらなかった。ここへ来た不安感とここから帰る不安感はまるで別のものだったが、そんな瑣末なことはどうでもいいような気がした。
 夏子は来たときと同じように、空を見つめていた。
 海に太陽が落ちていく。地平線がぼやけて、海が少しずつ赤く染まっていく。
 潮風を浴び続けた職員住宅の外壁は、黒ずんだ汚れが目立っていた。誰が置いたのか不明なベンチに越しかけて、夏子はこの島で見る最後の日没を、見つめていた。日が沈む情景は淋しいものだとずっと考えていた。だがこの日没は優しさを感じた。いつでも受け入れてくれるような、そんな慈愛を感じたのだった。
 島の一日の終わりは何度も目にしてきたが、ありふれた光景になることはなかった。今目にしている日没も、やはり奇跡的な情景であると思うし、もしもこれから先この島で生活したとしても、やはり太陽と海は泣きたくなるくらい素敵な姿なのだと思った。
 不思議だった。夏子はこの島を離れるが、それは永遠の別れではない。気が向けば十一時間船に揺られて、いつでも再訪することができる。だが胸に迫る、苦しいような喪失感はなんだろうか。
 十一時間という時間だけではないこの距離感は、なんなのだろうか。

「なんか淋しくなるなあ」
 宮原はそう言って熊や猫がプリントされた包装紙を、そっと差し出してきた。
「なにこれかわいい」
「でしょ。最後のほうは徹夜で完成させたよ。開けてみて」
 夏子は緑色のリボンを解いた。赤い小箱が姿を現して、なんだかクリスマスみたいだと二人で笑った。
「ちょ、これってマフラー?」
「そうそう。雑巾じゃないから気をつけてね」
「こういうのってさ、渡す相手違わない?」
「そうかな」
「そうだよ! 彼氏に渡すんだよ日本では」
「ここって日本じゃないから。ほれ、パスポート持った?」
 おどけた調子で宮原は言った。乗船を促す放送が流れて、宮原の笑顔が若干翳ったように見えた。
「メールするね」
 夏子も、急速に淋しさがこみ上げてくるのを感じた。
「うん。わたしも一日に何十回かメールする」
「ストーカーじゃん。夫に疑われるからやめてよね」
「そういえば、来なかったね、浅原」
「なんで夫の下りで彼が出てくるわけ?」
 周囲を窺うが、昌哉の姿はなかった。あらためて眺めると、この島にもこんなに大勢の人がいたのだと、驚きを覚える。もちろんここは単なる船着場で、島にはこの数十倍の人々がいるはずなのだが。
「なんかさ、彼って純粋に夏子さん好きだったよね。少年みたいに」
「少年でしょう。わたしからすれば」
「それが一番傷つくんだって」
 ぱしりと夏子の肩を叩いて、宮原が言った。どこかで夏子は安堵していた。最後に交わす言葉というものを、今は持ち合わせていないからだった。
 まだ夏の気配が色濃く残っているが、ワインレッドのマフラーを首にかけてみた。
「暑い」
「似合う! 妖艶な美熟女って感じ」
「ホント? 冬が来たらお洒落して白金でも歩いてみようかな」
巣鴨のほうがいいって」
 宮原の目は潤んでいた。夏子は無理に笑顔を作って、「メールする」と強く言った。それは自分自身に言い聞かせるためでもあった。そう、わたしは帰らなければいけない。帰る日が来たのだ。 
 船が港を離れると、そのタイミングを待っていたかのように昌哉が現れた。日に焼けた細い体が、妙に懐かしかった。彼もまた、最後の言葉を失っていたから、出て来れなかったのだろうか。夏子は苦笑した。みんな不器用なんだな。そう思った。
 昌哉は微動だにせずに、静止画のように、そこにいた。手を振ることもなく、ただ夏子に視線を置いたまま、動かなかった。距離は少しずつ開いていくが、彼の燃えるような目線を、夏子は受け止めているのが辛かった。体が焼けるような、心を射抜かれるようなそんな痛みを感じたのだった。
 すっかり人影が見えなくなると、島の全景を望むことができた。生活しているときには広大な敷地だと感じていたのだが、客観的に見るとずいぶん小さな島だと、実感した。
 やがて島は黒い染みのようになり、地平線から完全に消えるのだと思う。夏子は欄干に身を乗り出して、島を注視する。
 しかし、しかし島は厳然と存在する。視界から消えても、わたしの記憶が薄れていっても、確実に彼らは存在するのだ。
 夏子は宙に手を伸ばし、何を忘れてきたのか、それを口にしようとした。一陣の突風が体中を包み、その勢いに夏子は小さく叫び声を漏らした。(了)