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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

お茶で会いましょう

『お茶が、好きなんですか?』

 その紙切れを見つけたとき、わたしは反射的に周囲を見渡した。静かな市立図書館には、適度な数の人がいた。寂れているわけでもなく、混雑してもいなくて、ゆっくりと本を選ぶには最適な状況だった。

 手に取った本は紅茶や日本茶を中心に、たくさんの写真で紹介するものだった。

 前の週にこの町へ引っ越してきて、食器やカップを新調していたら、じっくりとお茶を飲みたくなった。凝り性な性格だからか、お茶を楽しむのなら正確な知識を手に入れようと、図書館へやってきたのだった。

『お茶が、好きなんですか?』

 丸みがあって敵意のない、人懐こい文字だった。パソコンで打ち出された文字に人格は感じないが、手書きの文字には安心できる温かみがあった。

 紙切れはレシートくらいの大きさで、裏返してみると空白だった。黄ばんでいるわけでなく、するとそれほど古くない時期に挟まれたのだと思った。

 少しだけ大胆になって、わたしはバッグからメモ帳を取り出した。一枚破ると、そこに文字を書いてみた。挟まっていた紙片を取り出すと、代わりにわたしの書いたメモを残した。

『お茶好きになろうと決心したところです。』

 読み返してみるとおかしな文章だが、そもそもメッセージがあること自体が不自然なのだからと思い直した。

 本を棚に戻すと、茶葉の種類について念入りに書かれた別の本を借りることにした。

 駅前のスターバックスでコーヒーを飲みながら、借りてきた本をめくった。様々な緑の茶葉が、美しく並んでいた。コーヒーを飲みながら日本茶を選ぶのは、なんとなく違和感があった。

 バッグからメモを取り出して、再度眺めてみた。丸文字だが、これを書いた人物は男性でないかと感じた。柔和で声の小さい男性の姿を、漠然と思い浮かべた。

 たしかに、お茶が好きでなければお茶について書かれた本を、手にしないだろうと思った。すると、この質問自体無意味なのではないかと、わたしは小さく笑った。

 高島屋で煎茶を買ってから、カステラに目を奪われて、それも買ってしまった。早く家に帰ってカステラを食べたいと思って、いつのまにか主目的が変わっていることに苦笑した。

 本に書いてある通りに、急須に茶葉をティースプーン二杯分入れた。湯飲みで冷ました熱湯を注いで、一分待った。タイマーではなく砂時計を引っ張り出してきて、これが実にしっくりきた。お茶を淹れるという行為はどこか儀式のようで、アナログな砂時計はそんな行為によく似合っていた。

 煎茶は適度に渋くて、穏やかな香りが口中に広がった。清涼感は草原のように爽やかで、思わず目を閉じてしまった。

 日本茶はこんなにおいしいものだったかと、三十年も生きてきて気づかなかったことに愕然とした。

 翌日からは仕事にも、購入した茶葉を持っていくことにした。

「なになに? 緑茶飲んでるの?」

 同僚の千佳子は大げさに驚いて、「わたしのも淹れてよ」と迫ってきた。

「嗜好の変化ってやつ」

「それって、加齢現象じゃん」

「失礼な。日本人は和に行き着くの」

「パスタとかコロッケとかサンドウィッチとか、ランチはそんなのばかりでしょ」

 千佳子は得意げに言った。そう言われると、返す言葉がないのだった。

 帰りがけに図書館に寄った。

 期待しながら世界のお茶大辞典を開くと、わたしの残したものでないメモが挟まっていた。

『僕もなんですよ。今度のボーナスで玉露を買うつもりです』

 咄嗟に、わたしは周囲に視線を送った。

 どこかにこれを書いた人がいて、こちらの様子を伺っているのではないかと、そう思ったのだ。

 様々な書物に目を落としている人があちこちにいるが、誰もわたしを見てはいなかった。

 バッグからメモを一枚取り出すと、メッセージを書き始めた。

玉露とはぜいたくですね』

 そこまで書いて、贅沢という漢字がでてこなかったので、紙を丸めた。手書きという作業は思った以上に困難が伴う。

玉露は飲んだことがありません。ボーナスがカットされなければ買ってみようかな』

 ユーモアのある人物だと感じた。図書館を出ると、三日後に出るボーナスで本当に玉露を買ってみようかと、そう思った。

 食後にコーヒーを飲むことが当たり前だったのに、ゆっくりと急須で淹れた緑茶を飲むようになった。抽出を待つ時間が、満腹感にひたれてとても充実したひと時に感じられた。

 その日は夕方から雨が強くなって、図書館に入る頃には足も腕も濡れていた。パンプスを履いてくるべきではなかったと、ため息をついた。

 本の中には、メモと小さな茶封筒が挟まっていた。

猫舌なので、低温でいれる玉露を気に入りました。おすそわけです』

 封筒の中には小さなビニール袋があって、そのなかに美しい深緑の茶葉が入っていた。

 普通なら気味悪く感じるのかもしれないが、その文字を見ると、安心してその茶葉を頂こうと思えた。

『こんな高価なものを! お返しはどら焼きがいいですか? 挟んでおきます』

 そうメモを残した。

 テレビを消して湯を沸かし、四十度くらいになるよう湯を放置した。砂時計を眺めていると、抱えている雑念がするすると落ちていくような錯覚を感じた。

「甘い」

 思わずひとり言がもれた。喉を通るときに高原が浮かんで、華やかな甘味が口に残った。

『出世払いでかまいませんよ。どら焼きも好きですが、かぶせ茶というお茶に興味があります』

 メモを読み上げると、わたしはかぶせ茶について調べた。文字通り藁などで茶園を覆って育成する、高級な日本茶であるようだった。急いで駅前でかぶせ茶を買うと、小袋に移してもらった。店員に味見をさせてもらうと、淡くて静謐な甘味が広がった。

「おいしい」

「熱いお湯で淹れていただくとさっぱりで渋みが強いお茶になります」

「奥深いですねえ」

 羊羹に目を奪われたがそこはこらえて、図書館に戻るとメッセージを残した。

『お返しのかぶせ茶です。どら焼きは厚くて挟めませんでした』

 どんな人物なのだろうか。わたしは迷った末、館内で見張っていることにした。小説を数冊選んで席に座り、読む振りをして書棚を見守った。

 一時間ほど待ったが、料理や飲料に関する書棚にやってくるのは女性ばかりだった。そして世界のお茶大百科を手に取る人はいなかった。

 だが翌日に寄ってみれば、きちんと紙は挟まっているのだった。

『ごちそう様でした。サバンナを感じる味でした。日本茶の世界は広すぎて、アフリカまで飛んでしまいました』

 大げさな文章に苦笑して、わたしはペンを取り出した。

『わたしも草原とか森とか、お茶を飲むと景色が浮かびます』

 そこまで書いて、逡巡した。緑茶で共感できる会ったことのない相手に、一度会ってみたいと思った。少年でも老人でも構わない。話をしながらゆっくりと、緑茶を味わってみたいと思ったのだった。

『駅前に緑茶のカフェがあります。一緒に飲みませんか?』

 心臓の音が聞こえたような気がした。書いてしまうと、途端に期待が不安に変わった。

『僕もサバンナに誘おうと思ってたんです。ではカフェで待ち合わせましょう。日曜日の朝十時はお茶向きだと思いませんか』

『十時ですね。朝のお茶会は優雅ですね。肩に鳩を乗せていきます』

 家に帰っても、心が浮かれていた。見たこともない相手だが、たった一冊の数百ページの中の一ページという確率が、不思議だった。

 眠る前にほうじ茶を淹れて、桜色をした萩焼の湯飲みで飲んだ。心が穏やかになって、自然と笑みがこぼれた。

 日曜日はすぐにやってきて、約束の十分前に店へ入った。胸を強く押されるような緊張はあったが、それ以上に高揚感があった。

 店内にはひとりだけの客が数人いたが、窓際の男性が目的の人物だとすぐにわかった。彼の手には地球の歩き方という本があり、キリンや象の絵とともにアフリカ編という文字が見えた。

「はじめまして」

 予想したよりも少し若そうな、丸い眼鏡をかけた男性が言った。

「はじめまして。鳩を忘れちゃいました」

 そう言うと、彼は頬を緩ませた。

 彼の向かいに腰を下ろすと、メニュー表を眺めた。静岡や狭山や宇治という文字が飛び込んできた。

「まだまだ始まったばかりなんだな」

 そう呟くわたしを、不思議そうに彼は見た。まずはお互いの名前くらい、知らなければなと、そう思った。(了)