読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

走ったとして、なにがあるのか。

 走ることについて、わたしはずっと不思議に思っていた。
そもそも小学生のころ、マラソン大会と称される催しが苦痛で苦痛で、それ以来だろうか、走るという行為に絶望していた。
 思えば、小学生の頃に決定的に嫌いになったことは、意外に多い。
 小学校だからこそ機会を与えてあげようと、親切にやってくれていることなのに、その反動が逆に大きくて、大人になっても嫌いなままでいる事象は多いものだ。
 例えばわたしの周囲には、小学校給食で休み時間も与えられないまま食べさせられたために、未だに干しブドウが嫌いだという友人がいる。不思議なのは、レーズンが入っている料理は大丈夫なのに、レーズンパンだけが食べられないのだと言う。つまり、憶測だが、給食のメニューを思い出してしまうのかもしれない。
 現在の小学校は、給食を強制されない。
 とても甘い。嫌いなものは残していいし、多ければ食べるのをやめてよい。実に甘やかされている。
 それがいいことなのか、厳しくして大人になっても食べられないものを、記憶が足かせとなって食べられないものを生み出すのか、そもそも甘やかして食わず嫌いを許すのか、とても難しい問題だ。
 しかし親としては、「このお米のひと粒ひと粒は農家の方が必死になって作ってくださって」という、昔ながらの、残すんじゃねえぞ、という食育のほうが、ありがたいと思う。だからわたしは、家で息子にずいぶんと厳しい食事を強いている。
 好き嫌い以前に、音を立てない。残さない。時間内に食べる。行き過ぎた指導をしている。
 
 話がそれた。
 久しぶりに、無意識に大幅に逸れた。
 北朝鮮のミサイル並にそれた。
 パナソニックのシェーバーより剃れた。

 走ることについて、わたしが思うこと、という話だった。なんだか村上春樹みたいだ。
 今でこそわたしは走ることが好きで、早朝5時前に家を飛び出し、夏の今ならば本格的に太陽が昇る前、オーケストラが少しずつ音を高めていくような空と、町の人々の生活の音質に、合わせるようにして陸上競技場のトラックを走る。
 一週ごとに世界は様相を変えていく。
 空は徐々に青くなり、人が多くなって、雲は押し寄せ、風の匂いが変わる。
 鳥の声も増えて、いよいよ生命が漲って、世界が目覚めるのだ。
 走ることのなにが楽しいのかと、ずっと思っていた。
 走らない人にとっては、お金を払ってまで走るマラソン大会、大きな大会だと一万円なんて出費はざらなのに、それで苦痛を味わうとはなんなのかと、理解不能ではないだろうか。
 リフト代を払って疲れるまでスキー。わかる。
 舟代を払って眠いのに早朝から釣り。わかる。
 一万円で東京走る。辛い。わからない。
 やはりこうなるのではないだろうか。

 走ってみると、ひとつ気づくことがある。
 走ることは、実に心を研ぎ澄まされた状況にもっていけることだ。というと大げさで、的確でない比喩をするならば(じゃあするな)、トイレの個室と同じ感覚なのだ。
 つまりひとりきり。この世界で唯一ひとりになれる空間を作れるのだ。
 だからなのだろうか、走っているときはいろいろなことを考える。
 普段は思考にのぼらないこともたくさん、胸の奥にしまっておいた苦しみや悲しみも出てくる。そして咀嚼して、静かな朝に「たいしたことないじゃないか」と笑ったりもする。
 想念は次々に頭をめぐり、ひとりで走っているはずなのに、この町全体と、町に生きる人々の想いと一緒に、そもそも人間という種別、そこに生まれる必然的な喜怒哀楽を達観して走っている気がしてくる。

 そういう不思議な感覚に陥るのは、実に楽しいのだ。

 それでも「走るのなんて苦しいだけだ」という怒りん坊さんには、ウェアやシューズを勧めたい。
 形から入るのも、やはり重要だと思う。
 ソールの薄い靴、わたしはお勧めしたい。初心者向けのクッションの効いた靴がいいと言われているが、その一方でベアフット、いわゆる裸足感覚で走るのがよいとされる風潮もこの頃は攻勢を極めている。
 
 この辺は、スコットジュレクさんをはじめとした、BORN TO RUN を読んでいただくなり、専門家の話をサイトで読んで、好みで判断してほしいのだが、個人的には、やはりシューズは裸足に近いものをお勧めしたい。理由は省くが、やはりクッションのある靴は非現実を足に与えているのだろうと思う。

 走ることは楽しいという話だったが、少しも楽しい話にはならなかった。
 なぜだ。
 わたし自身も、今後もマラソン大会に出たいと思わないと、書き終えて思うのだ。