卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

部屋は、閉じている。

すえたような臭いに顔をしかめると、わたしは着ているジャージの裾を鼻元に持ってきた。
 
洗剤でも汗でもない、落ち着く臭いがした。
 
ならばと、すえた臭いの正体を確かめるべく、敷きっぱなしの布団でだらしなく腹を出している恵一に近寄った。
 
まるで浮浪者のような臭いがした。
 
「ちょっと、ねえ、起きて」
 
わたしは恵一の毛むくじゃらの腹を叩いた。ぽこん、としまりのない音がした。
 
小言を口にしながら恵一は上半身だけ起こし。
 
「なにさこんな朝から」と言った。
 
「朝じゃないよ。もう十一時だし」
 
「午前中は朝なんだよ。ていうかなに」
 
「すごい臭いんだけど」
 
恵一は脇の下に鼻をくっつけて臭いを嗅いでいる。ほんとだ、などと笑っている。
 
「なんでお風呂くらい入らないのよ」
 
「知らねえよ。水道止められたじゃんかよ。バルブ開けたの俺だぞこの野郎」
 
恵一と暮らして三年になる。ふと、この人はだれだろうかと、思うことがある。
 
こうして向かい合って、わたしの言葉が彼に届かない。届かないことにお互いが疑問を抱かない日々は、いつから始まったのだろうと不安になる。
 
何日も剃っていない無精ひげが、なんとも汚らしい。
 
汚い? 恵一に嫌悪を覚えること自体、不可解だ。無精髭だってワイルドだと焦がれていた日々もあったのだ。
 
ワンルームの部屋は布団とちゃぶ台とラックでほとんど一杯だ。
 
ふたりで生活するには、あまりにも狭い。狭さは生活を狭め、心を狭め、あらゆる可能性を狭めていくのではないかと思う。
 
食べ残したスナック菓子やカップラーメンのカップが床に転がっている。
 
「そりゃそうさ、もう一週間くらい風呂入ってねえもん」
 
まるでわたしに非があるかのように、恵一は言う。
 
「いやだ。入ってきてよ」
 
「めんどくせー。まずメシメシ」
 
仕方なくわたしは立ち上がって、ずいぶん身体が重くなったものだと感じた。
しばらく体重計に乗っていないが、わたしの体は脂肪が蓄えられて、恵一を馬鹿にしている状況ではないほどに、醜い人間になっているのだと思う。
 
子どものころ、母がワンピースを作ってくれた。
青い、雨上がりの空、いきなり太陽が顔を出したような青空、そういう澄んだ青色のワンピースだった。胸元に白い花をあしらった飾りがあって、それがわたしの、唯一の、わたしであるための誇りであった気がする。
 
学校で靴を隠された。
教科書を破られてゴミ箱に捨てられた。
給食には綿ぼこりをま混ぜられた。
 
悲しかった。
この世は悪意に満ちているのかと、悔しかった。
けれどわたしには内包する空があった。
母が魔法のように紡いでくれた、青いワンピースがあったのだ。
 
キッチンと呼ぶには小さすぎるシンクは、最後にいつ使ったのか思い出せない。
 
洗われることなく微妙なバランスで積み上がった皿は、打ち捨てられた廃屋のように、惨めな光景だった。
 
「カップ麺しかないけど」
 
わたしは棚を漁りながら言う。カップ麺が数個と、レトルトカレーとシーチキンの缶詰があった。
 
そろそろインスタント食品を買い足しに行かなければと思う。
 
「またかよー。だらしねえな」
 
そんな恵一の言葉に急に怒りが込み上げる。
なにもしないくせに。
なににも戦いを挑もうとしないくせに。
ただこの場所で、狭い世界に閉じこもっているだけなのに友達と思っていたあの子に靴を隠されて友達のあの子にも教科書を破られて友達のあの子が嘲笑してわたしはクラスの笑いものでそれもこれもわたしがつまらなくて弱くてあんたはそんなわたしと同じじゃないか同じだからだからあんたはわたしにお似合いなのか敗北者同志狭い部屋で朽ちていくのか。
 
「自分でどうにかしなさいよ!」
 
言ってみて、血の気が引く。どうにかしなきゃいけないのは自分もだ。
 
二か月前に派遣先から契約を更新されず、それ以来わたしは部屋から出なくなった。
 
今までは毎日化粧を欠かさず、カロリー制限した食事を工夫することに腐心し、室内でできる簡単なヨガも日課にしていた。
 
恵一はもっと溌剌としていたし、手料理を向かい合って食べることが日常だった。
 
どこでわたしの人生はこうも変わってしまったのだろうか。
 
近所のコンビニに水や食料を買いに行くくらいしか、外には出ない。
 
外に出ても、街に色を感じない。常に黒と白の世界。きっとそれが、それが今のわたしの世界なのだろう。
 
「おーい。悪い悪い。機嫌直してよ」
 
恵一はそう言って、ぴりぴりとカップラーメンのフィルムを剥がし始める。
 
顔がむくんでいるのが自分でも分かる。
 
焼酎のペットボトルからコップに注ぎ、一気にあおる。アルコールそのもののような味がする。喉に沁みて涙が出た。
 
朝から酒かよーうけるーなどと恵一は笑って、わたしを背後から抱いてくる。
 
「三分でどこまでできるか勝負」
 
そう言ってわたしの胸に手を這わせてくる。
 
乳首をつまみ、下腹部にもう一方の手が入ってくる。
 
閉めきったカーテンからうっすらと光が漏れている。
 
もう一杯焼酎を注ぎ、あおる。目頭が熱くなる。
 
涙がぽろぽろと出てきて、恵一の手は下半身をまさぐって、わたしはさらに涙が止まらなくなる。
 
隙間からの光は、希望のようにも思えるし、遠い世界の事象のようにも感じる。
 
光のある世界から逃げたいと、泣きながらわたしは思う。
いっそ光がなければ、なにも見えなくて、汚点も隠せるのにと、わたしは泣いている。