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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

カオマンガイをあなたに

月が出ていた。
朝から雨が滴っていたのに、昼過ぎに太陽が出ていた。山下達郎の夏バージョンみたいな、天気だった。
 
この頃ずいぶんと知らないことが多くなった気がした。
なぜだろうか、意味もない話をするFMラジオを聞きながら、これも知らない。それも知らないと、苦笑しながら聞いていたのだ。
流行に乗り遅れている事柄や、興味のない分野、年齢によるついていけない話題や、生き方にまるで抵触しなかったことたち。
知らないでいることは、平和でいる一方で勿体ない部分もある。
 
一円パチンコがどうのこうのとか、競馬関連、野球にも興味がない。バレーボールもどうでもいいし、韓国や中国旅行の話は心底呆れる。
だが興味がないということは世界を狭めている、自分で自分の首を絞めている部分もあると、それはとてもつまらないことだとも思う。
もちろん有限の時間の中で、すべてに興味を抱き、時間を割くことはできないという面もあるのだが、それにしても自ら扉を閉鎖して情報すら寄せ付けないというのはどうだろうかと、いまさらながら思うのだ。
 
昔、といってもたかだか三十年ほど前だ。
幼いわたしは、必死に情報を集めていた。
ドラクエの新作はいつどれだけ入荷してくれるのか。予約している店舗でいつ買えるのか、それこそまいにち、耳を大きくして、小さな、とても小さな情報網の中で錯綜する話に翻弄されていた。
つまりその当時のわたしは、情報を自らつかまなければならなかった。
探して、手がかりだけでもいいから見出して、追い求めた。
現在は逆だ。
溢れんばかりの情報の中から、好きなものだけを取捨選択する。
放っておいても発売日や入荷日、発送日なんてことも流れてくる。
いらない情報をいかに聞かないか、そちらのほうが重要だったりもする。
 
どちらがいいのか。それはわからない。
ただ子どものころのようなワクワク感、期待に満ちて眠れない夜はなくなった。
わかりきった明日だけが、この数十年間はあって、実際にわかりきったできごとだけが、起きている。
 
ただそれをもって、昔がよかった、とは思わない。
親に隠れて電話をすることや、とにかく情報が得られない環境、近所にコンビニなんてなかった時代が素晴らしかったとは断言できない。
不自由さの中の自由。不自由だからこそそれを切り抜けた幸福はあったのだろうが、最初から自由が用意されて、そこにどう幸福を高めるかという工夫をする日々だって、充分素敵だ。
 
とりとめもなくそんなことを考えて、わたしは新婚旅行の帰りに立ち寄ったシンガポールの料理を作った。
カオマンガイ
現地で食べなかった料理だ。食べたいと思ったのだが、蟹やら海老を食べていたら、いつの間にか食べそこなった料理だ。
レシピ本を見ながら、見ながらそれほど見なくてもできるものだと失笑して、炊飯器のスイッチを押した。
 
押した瞬間に、電撃のように頭が痺れた。
この料理は、誰のために作っているのか。
もちろんわたしは食べたい。しかしひとりで3合は多い。
するとつまり家族のために作っているということになる。
息子を朝、ずいぶんと叱った。
わたしは苛々していて、叱ったのだが、なぜわたしは朝からそんなに苛立っていたのだろうか。
 
月はのんびりと、町を照らしてくれている。
のんびりとしているように見えるのはわたしの主観だ。
テレビはユーロを中継している。
激しく削りあう選手たちの、辛酸をなめた顔が映し出される。
 
カオマンガイを出す屋台の喧騒を思い出す。
わたしたちはまだ若かった。
新婚で、新婚に相応しい柔らかい夜だった。
ごちゃごちゃしたシンガポールの屋台の前に、わたしたちはモルディブにいた。
足元を、闇夜の月明かりだけが頼りの浜辺の、砂浜にたくさんの蟹が歩く音がした。
とても小さな、東京にいたら音にならないほど些細な音で、蟹たちは穴を掘って眠りに着こうとしていた。
その夜の中で、わたしたちは少しずつ家族になろうとしていた。
少しずつ、他人が他人でなくなろうと、しかしいつまでも他人であることは変わらない事実を受け入れながら、黒い海の、波音のない穏やかな海を一緒に見ていた。
 
一緒に見たあの光景が、わたしたちを支えているのだろうか。
炊飯器の吐き出す蒸気はとてもいい香りがしている。
結局のところ、幸せはどんな時代でも、技術進歩でも、環境でもなく、もっと根源的に、それぞれの中にある規範や規律や、そういった細やかなことの先に、霧がかった先に、うっすらと見えているようで見えない。
 
とても不確かなことなのだと、幸せの難しさを、少し凝ったカオマンガイの香りとともに思い出したのだ。
 

今週のお題「2016上半期」