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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

ひとり メール。

追憶の展覧会

 母が亡くなって、一年がたとうとしていました。中学生になったばかりの啓太は、まだ十数年しか生きていませんが、これほど辛い一年はなかったと記憶しています。
 六畳の和室に、父は座っていました。啓太も隣へ行って、きちんと正座で腰を下ろしました。すっかり日課になりましたが、こうやって正しい姿勢で正座を組むことは、今日一日を悔いなく過ごすための儀式のようです。
 母が微笑んでいる写真を見つめ、それから線香をあげました。手を合わせてしっかりと目をつむります。
 母さん元気ですか? 僕たちも元気です。家族みんな、今日も元気で過ごしましょう。心の中で、啓太はそうつぶやきます。
 啓太が目を開けても、父はまだ手を合わせていました。
「今日は長かったけど、何をお願いしたの?」
 啓太は半熟の目玉焼きの火加減に注意しながら、トーストを焼きます。朝食は啓太が作り、夕食は父が作る、自然とできた、この家のルールでした。昨晩父が作ったパンプキンスープをよそって、食卓に並べました。
「会いにきてくださいって、お願いしてみた」
 父はそう言いました。珍しく真面目な顔で言うので、あながち冗談ではないのだと思いました。
 この一年間、啓太はなるべく明るくあろうと努力しました。本当は泣きたいときがたくさんあったし、泣かないまでも笑いたくないときはたくさんありました。父も一緒なんだと、このときはっきりと感じました。
「そっかあ。会いたいよね」
 啓太は父の願いを否定しませんでした。何度も心の中で願ったことでしたが、父の口から聞くと意外でした。
 母はちょうど一年前の今日、買い物帰りに自転車ごと車に衝突されたのでした。歩道を工事していたために見晴らしが悪く、道も狭くなっていたのです。
 その日以降、啓太は毎日のように責任を感じながら過ごしてきました。
 関係ないと理解はしつつも、もしあの日買い物に行かせなければ、違う道を通らせれば、家から出ないように注意していれば、そんな考えても仕方のないことを考えたのでした。
 食事を終えると、父は手早く用意をします。クリーニング屋から取ってきたワイシャツに腕を通し、弁当の入っていないバッグを手にして、言います。
「じゃあ先に行ってるよ。車に気をつけるんだぞ」
「了解」
 慌しく父は出かけていきました。啓太は中学に入った記念ということで買ってもらった携帯電話を手にしました。バカバカしいと思いながらも、使わないのに登録した母のメールアドレスにメールを送ってみます。
 すぐに返信が来ました。あて先がない場合、メールが戻ってくるのです。しかし画面を見て驚きました。
「気をつけてね」
 啓太はその場に立ちつくしました。周囲をうかがって、再び画面に目をやります。やはりメールは来ています。
 同じアドレスを誰かが使っているのだろうか。でも同じのを使うことなんてできたっけ? いつの間にか相手が変わってるなんて、不便じゃないか。
 返信が来たことに気持ちが浮ついて、その日は学校でもニヤニヤしてしまいました。体育でものびのび動いて、サッカーで二得点を決めることができました。
「なんだよ啓太。今日絶好調じゃん。いいことあったの?」
「ふっふっふ。まあね」
「なんだよ」
「秘密!」
 友達に言われてみてはじめて、啓太は実感しました。この一年は学校でも元気がなかったな、と。もともとはこうして走り回って、友達ともたくさん話していたはずです。
「今から帰るね。今日はテストもばっちりできたよ」
 淡い期待をこめて、啓太は校門からメールを送りました。駅のロータリーを抜けて、商店街の入り口を通過した所で返事が来ました。
「気をつけてね。今日は啓太の大好物、ハンバーグだよ!」
 胸が高鳴ります。正体はわかりませんが、かつての母そっくりな言葉が帰ってきました。まだメールはなかったですが、玄関を開けるとそんな言葉が台所から聞こえたのでした。
 続けざまにメールを打ってみます。母と啓太しか知らない情報を送ります。
「お父さんのお酒は買ってきたの?」
「あれ、よく分かったね。昨日ね、お父さん根をあげたよ。もうだめだー明日から飲ませろーって」
 返信を見て、啓太の頭の中が真っ白になりました。
 知っている! 僕はこのメールの中身を知っている! 急速に心臓が高鳴りました。
 これは去年、母が事故にあう前日のことだ。確か健康診断の結果がよくなくて、父がお酒をやめるといいだしたのだ。でも三日しかもたなくて、母に買ってきてくれるよう頼んだのだ。
 啓太は必死に考えます。
 すると僕がやり取りしているのは一年前のお母さん?
 残りの道は走って帰りました。勢いよく玄関を開けると、キッチンから肉の焼ける香ばしい匂いがしました。
「おかえりー」
「あれ、父さん?」
「そうだけど」
「なんでいるの」
「今日は早く帰って来る日だろう。木曜日」
「あ、そっか。ひとり、だよね?」
「当たり前じゃん。他に人がいたら泥棒だよ」
 父はそう言って笑いました。啓太は動揺しているのをさとられないように、自分の部屋に行きました。
 この家のどこかに母がいる。というより見えないみたいだけど、母はいる。時空を越えて橋がかけられたのだ。理屈はよく分からないが、あの日の事故を止めなければ。
 そして啓太はメールを打ちました。
「お母さんお願いがあります」これはちょっと重いな。
「明日、買い物に行かないでね」これはおかしいか。いきなりこんな文面はない。
「明日、学校の家庭訪問があるから十三時から十五時までは家にいてね」これなら不自然ではない。
 啓太は納得して送信ボタンを押しました。返事を待つ間、周囲をきょろきょろと窺いました。やはり家の中に母がいる、そんな気配をしっかりと感じることができました。
「はいはい。いいよ。というかいきなり家庭訪問なの? まさか悪さしたの? あ、怒られるからメールなんでしょ。家の中なのに変だと思ったもん」
 啓太は胸を撫で下ろしました。
 とりあえずこれで、お母さんが事故にあう時間帯は外出しないですみそうだ。
 その夜は眠れませんでした。朝になっても絶えず緊張していて、トイレに三回も行ってしまいました。
「おいおい大丈夫? お腹痛いなら学校休んだっていいぞ」
「ううん。単なる寝不足。面白いマンガ借りてさ、眠れなかった」
 ふうん。と父は焦げ目をはがして、パンにかじりつきました。緊張のあまりパンを焦がしてしまったけれど、父は何も文句を言いませんでした。
 生きた心地のしない一日でした。朝から何度もメールを送りましたが、すぐにエラーメッセージとして戻ってきてしまうのです。学校が終わって、やっと諦めがつきました。
 一日限定の橋だったんだ。一日だけでも、お母さんは戻ってきてくれたんだ。
 そう思うことができました。
 帰り道、夏は図書館が延長して開いていることを思い出し、啓太は少しだけ寄り道をしていくことにしました。
 館員に一年前の新聞を探してもらって、閲覧コーナーで目を通します。この世で一番見たくない記事、母が事故にあったという記事は消えていました。
 ない! お母さんは一年前に事故にあったはずなのに、なくなった! じゃあ生きてる?
 啓太は走って帰りました。涙が出そうになるのをこらえて、必死に走りました。
 靴を脱いでキッチンに向かうと、そこにはフライパンを振る父がいました。
「よっお帰り! 今日はオムライス!」
 啓太は実感しました。
 お母さんはここにはいない。でももうひとつの世界があって、そこにはきちんと存在する。お母さんとお父さんと僕で、楽しく夕食を食べている。
 でも、と啓太は考える。
 でもこの世界だって僕は大好きだ。お母さんはいないけど、たくさんの幸せな思い出があるし、それをお父さんといつまでも忘れないんだから。
 啓太は父に抱きついて、お腹が空いた! と叫びました。
 

今週のお題「雨の日グッズ」