卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

闇鍋

妻との最後の食事は、暗闇の中で始まった。

冗談交じりで、「最後に闇鍋なんてどう?」と僕が提案すると、「いいよ」とあっさり了承したのだ。

闇鍋はわれわれが交際するきっかけにもなった思い出の料理だ。それが最後の食事とは、皮肉なものである。

カーテンの向こうにある街灯と、あちこちの家電機器の蛍のような明かりがあるため、うっすらと妻の顔が浮かび上がっている。

IHヒーターに載せられた土鍋からはぐつぐつと煮込まれる音がする。

「はい、どうぞ」

このところ聞くことのなかった柔らかな口調で、妻は取り分けてくれた。

そう、かつてはこんな風に、互いの間には常に優しさが存在していた。

優しさは徐々に磨耗していき、労わりや安らぎに変化することなく、粉々に壊れてしまった。

「ありがとう」

僕も素直にそう言えた。暗闇だから言えるのだろうか。それとも最後だからか。

スープをすすると、魚介の出汁がきいていた。

「もしかしてアサリ入れた?」

そう尋ねてみる。

「ぴんぽーん。よくわかったわね」

「僕もタラを入れたよ。やっぱりアサリの出汁は強力だなあ」

僕はもうひと口スープをすすってそう言った。くすりと笑いながら、妻も賛同した。

具材を口に入れると、ガリッと異質な食感があった。アサリの砂にしては大きすぎる。

「なんだこれ?」

指でつまんでかざしてみるが暗闇でよく分からない。丸っこい物体だ。丸いリング。リング?

「結婚指輪よ」

急に冷たい声で、妻はそう言った。

「もう必要ないもの」

「なるほどね」

僕は平静を装いつつ、指輪をテーブルに載せた。同時に妻が痛い、と口走った。

「なによこれ!」

「ああ、ネクタイピン。新婚時代にプレゼントしてくれたやつ」

「食べられないもの入れないでよ」

「そっちこそ」

そこからは探り探り口を動かした。舌先で硬いものがないか確認して、食べる始末だった。

肉は妻の嫌いなラム肉を入れてやったのだが、全く反応がない。暗闇だと食べられるものなのだろうか。

「もっと臭うレバーにすればよかった」

ついついそんな愚痴を口走ってしまう。

「なによ」

「なんでも」

「どうせラムでしょう」

「あれ」

「もう何年も前から好きなんですけど。本当にあなたは自分のことしか見ていないのね」

表情はまるで分からないが、勝ち誇った妻の顔を思い浮かべると、腹が立った。

二杯目からは自分でよそった。もうありがとうなんてとても口にできない。

やはり別れるのは正解だった。こんな底意地の悪い女とよくひとつ屋根の下で暮らしていたものだ。

また不思議な食感があった。ふにふにとして噛み切れない。

「おい! なんだよこれ。なに入れてんだよ。紙みたいなやつ」

「ああ、結婚式の写真よ。もう見たくもなかったから」

更に怒りが込み上げてくる。こういう魂胆か。

しかしすぐに妻も悲鳴を上げる。

「なんなのよ。わざとでしょう。あたったらどうするのよ!」

僕はほくそ笑んだ。きっと投入した牡蠣に違いない。妻は貝類に弱い体質なのだ。

「牡蠣は鍋に必須でしょう」

そう言って僕は笑った。

「あの人はお元気?」

妻が馬鹿にしたような口調で、そう言った。

あの人というのは僕の会社の部下である女性のことだ。数年前から付き合っていることを、妻は感づいている。

「あ? 会社で顔を合わせるし、元気だけど」

会社で、を強調して言った。ただここ数日、風邪でもひいたらしく姿を見ていない。

「ここ最近いないでしょう」

妻は言った。金属のように冷たい声だった。

鍋の熱気が急速に失われるような、そんな氷の声だった。

僕は気味悪く感じたが、先ほどから妙に深みのある肉を、食べ続けている。