読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

世界の終わり

追憶の展覧会

「もしもよ。もしも明日世界が滅ぶのなら、どうする?」

ロウソクの柔らかい光の中で、妻が言った。

ここのところ断続的に停電が起こる、今夜もすでに二時間ほど、電気供給が止まっていた。

家中から音が消えて、暗闇に包まれると、不思議と時間感覚がなくなる。

一分はとてつもなく長いような、瞬きのように短いような、そんな不安定な感覚になる。

「そうだなあ」

僕は考えてみる。明日終わる世界のことを。

極上の食事を食べても、ほとんど味わうことはできないかもしれない。

どこか行きたいところも、思い浮かばない。

散財したところで終わってしまうのなら、楽しめるはずもない。

「なんとか生き延びる方法を考えるかな」

「へえ。あなたらしくもない。すぐに諦めるのに」

「だってさ、滅ぶといっても地球自体がなくならないかもしれないわけでしょう」

「まあね」

「なら生きる方法を見つけるかなあ」

そう言ってみるものの、実際は震えて朝を迎えるだけかもしれない。

「そしたらきみは?」

僕は妻に語りかけてみる。

風が少し強くなってきた。窓がカタカタと振動する。

「そうね。憎い人を」表情までは分らないが、どこか冷たい口調で妻は言う。「殺しちゃうかも」

「物騒だね」

「だって、最後だもの。最後くらい悪くなったっていいでしょう」

よくないよ。とそれは口に出さなかった。

隣家の窓からも淡い光源が漏れている。きっとロウソクを家族で囲んでいるのだろう。

風はさらに強まっているように感じる。

「こんなに風強くなるって言ってたっけ」

「ううん。そういえば不気味ね」

妻はそう言って、キッチンのほうへ移動した。

ワインのボトルとグラスをふたつ、器用に運んできた。

「ねえ。ひとつだけ嘘を言い合いましょうよ」

妻は音も立てずにコルクを抜き、グラスにワインを注いだ。

「嘘?」

「そう。相手がびっくりするような嘘をひとつだけ」

グラスを口に運んで、考えてみた。少し土のような香りがして、それからすぐに果実の華やかな香りが口中に広がった。

あなたからどうぞ、と促されて、僕は考えてみた。

夜の闇はどこまでも深く。漆黒の海のように感じられてくる。

「実は」

「なあに?」

「実は、好きな人ができた」

僕がそう言うと、妻は小さく笑った。

闇の中に、ぼんやりと炎に浮かび上がった妻の顔が、笑っていた。

「明日ね」妻は凍りつくような、冷たい口調で言った。

「明日?」

「世界は滅ぶのよ」

風が窓を震わせ、僕の身体を吹き抜けていくような、そんな感覚に陥った。