卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

夜に挑むひかりたち

 わたしは疲れていた。
 疲れていると、考えることすらもう嫌だった。そのことを自覚したからといって、生活は変わらないのだ。
 車窓にはわたしの顔があった。
 顔色は悪くなくて、夜の街の手前に、照明に浮かび上がるわたしがいた。
 表情がなくて、なにを考えているのかわからない。それが、わたしがわたしを見た感想だった。
 そして、思う。わたしがわたしの考えていることがわからないのならば、窓に映る人間は誰なのかと。
 
 中野駅を過ぎて、吉祥寺あたりからちらほら空席が出現する、夕刻の中央線だった。
 すっと立つ気配があった。
 初老の女性で、顔に刻まれた無数の深い皺が親しみと歴史の重みと、そして人生の終焉の気配を感じさせた。
 老人は苦手だった。
 権利を主張してばかりいる老人たちに、傍若無人とされる若者以上の嫌悪感を抱いていた。
「どうぞどうぞ。ぼく、疲れたよね」
 老婆の言葉の先には、就学前と思われる男の子がいた。しっかりと立っているのだが、母親の足にもたれかかるようにしていた。
「いえいえ。とんでもないです。座っていてください」
「いいのいいの。わたしらなんて普段動かないから立つことくらいしないと。それに坊やはひどく疲れているじゃない。休ませてあげて」
「駄目です。申し訳なくて」
「いいのいいの。とにかく座らせてあげて」
 子どもはちょこんと座ったかと思えば、すぐに斜めに傾いて眠った。
 それを愛おしそうに老婆は見つめて、若い母親となにか言葉を交わしていた。
 
 心が疲れているのだと、その光景を見てわたしは思った。
 立っていることが辛いのではない。満員電車で疲れているのではない。もっと根源的な、生きていることそのものに疲れていたのだ。
 だとすると、わたしは途方もないほど道を外れているではないか。
 心に余裕がないわたしは、老人すべてを自分勝手な存在と決めつけていた。
 それからすぐに、子どもの座った隣の男性も立ち上がり、母親に席を譲っていた。
「座ってください」
「いえ、わたしは大丈夫です」
「お子さんが眠っているんですから、ほら、支えてやってください」
 そんな会話が聞き漏れてきた。
 夜を走る電車は、暗闇を進んでいた。
 しかし暗闇の向こうには、無数の家庭の灯りがあった。あらゆる家族たちの、あるいは独り身の生きている証があった。灯りたちが漁火のようになって、この世の闇に対抗していた。
 そうだ、わたしたちは心の闇に立ち向かうのだ。
 老婆が席を立った男性と、子どもの寝顔を見ながら談笑し、それに若い母親もつられて笑って、いつの間にか他人だった人々が、一時的に他人でなくなる。
 車窓から見える灯りは、そういうことなのかもしれない。
 すべては他人なのだが、夜という大きな枠組みの中では、一時的にこの夜は団結している。
 淋しい人生に、灯りをともして対抗している。
 
 わたしはその夜も疲れていた。
 けれどその電車の中で、その疲れの曖昧さに気がついたのだ。
 この疲れは座ってぐっすり眠ることでは解消できない。むしろ、誰か必要としている人に席を譲ること、そういうことでしか解消できない疲れなのかもしれない。
 窓に映るわたしは、やはりなにを考えているのかわからなかった。