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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

忘却の歌

追憶の展覧会

お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

 

 鏡の前に奇妙な生き物がいる。
 化粧をするほどに不可解な獣のようになってしまって、
これはきっと年齢のせいなのだと思うことにした。
「あなた唐突にそんなこと言っていいんですか」
「いいの。別に深い意味はないから」
「結婚しようか、に深い意味がないんですか」
「ええ。どうせ嘘だもの」
 なんだ、嘘ですか。いや本気よ。混乱しますね。えへへ。
 わたしはそろそろ三十代も終わろうとしていて、もう親はわたしの天涯孤独を覚悟している。
実家に戻ってきたらどうかとしきりに誘われる。
「でもさ、実家の場所忘れちゃたの。おろろ」
 とおどけて見せるが、受話器の向こうで母が笑うことはない。
 
 わたしだって結婚したくないわけではない。しようと言われたりしようと誘ったり、
何度かそんな駆け引きのような虚言を言い合ったことはある。
名刺集めが趣味の配管工はなかなかドラマチックで、わざわざ観覧車の中で「結婚しよう」と言った。
「あのね。なによりもわたし、観覧車嫌い」
「あ、ごめん。知らなかった」
「知らせてなかったもん」
「じゃあ続きは降りてから」
「いやだ。飛び降りる。おーい止めろー監視員」
 
 それから美食家だという地方公務員もいた。
美食家だと自分から言ってのける嘘っぽさが好きだった。
ぺらぺらで、たまに彼の背景が透き通って見えたほどだ。
「なんで断るんです?」
「なんでもかんでも、わたしって好きだという感情がよくわかりません」
「じゃあ僕をどう思うんです」
 ぺらぺらの漫画みたいでかわいいとは言えずに、
「なんでしょう。真摯で真っ直ぐな人で、刺身の鮮度にこだわりそうに見えます」
「ああそうですか」
 その美食家も、わたしのもとから去っていった。
 最後に彼の家にふらりと訪れたとき、「なにしにきたんですか」とまで言われて、
ちょっと顔を見たくなったのだと嘘をついた。
むやみに歩いていたら美食家の家に着いたまでのことだった。
「じゃあ僕はあまり気乗りがしないので」
「帰って欲しいですか?」
「はい。ごめんなさい」
「了解。隊長」
 
 わたしは心がすさんでいるから外見もくすんでいるのだと言われる。
生きている実感はないのだが、きっと生きているのだから死ぬのは何よりも怖い。
怖いったら怖いのよ。とわたしが切に唱えれば、
だったらもっとシャンとしなさいと返される。
珠子という野暮ったい名前の幼なじみも、腹が引き出しのように段々になった母も言う。
「珠子なんて名前で生きてきたんだもんね。あんたには勝てないよ」
「うるさい。あんたはそうやって人の気にすることを平気で言う」
「だって。人の気持ちなんてわからないもの」
「わかろうとしないからよ。勝手な理屈こねてさ」
「だから独身なんだ、ってことでしょうかお代官様」
「もう。すぐにふざける」
「おろろろ。いい人紹介して」
「いやよ。あんた前に紹介した人の前で鼠の死骸の話ばかりしたじゃない」
 うんうん。それって現実っぽくてよくない?
 ムードって単語、知ってるの? あんた。
 
 わたしは夜空にハンドバッグを振り回しながら、会社帰りのハゲ頭に振り下ろそうとした。
すんでのところで思いとどまって、ならば路肩に止まったスポーツカーに標的を移した。
でも車体ががくがく揺れていたから、やめた。
覗き込んでみれば、布切れのように半端に脱げた衣服の男女が、くねくねと抱き合っていた。
ああなんて平和な夜。
窓ガラスをノックして、中の男は恐怖で顔をゆがませた。
わたしは口の端から唾液をすすうと垂れ下がらせて、にやりと笑ってやった。
 
 人を信じたり愛したりということの意味を、辞書で引いたり人に聞いたりしてみた。
おまえはバカか。とストレートに言ってくれたのが無職で外見も冴えない年下の男だった。
「そんなこといい歳して質問するなんておまえどうかしてる」
「どうかしてるのは百も承知なの」
「愛だの信頼だのって、そんなもん俺にはいらん」
 ああこの男はいいかもしれない。
価値がない男こそ、愛でるには最高の玩具なのかもしれない。
「臓物臓物。おごったげる」
「よせよ。そういう言い方」
「まあまあ。とにかく焼肉連れてったげる」
 男は名前を名乗らないまま3ヵ月になる。別に興味はない。
引き締まった体だが、根は臆病なのもわかっている。そこがかわいくもある。
屁理屈ばかりこねて、所詮社会生活をまっとうに成し遂げられない男。
分相応という言葉を未だに知らない空虚な生き物。
「燃えよ臓物」
「だからさ。女だろ? へんな言葉を」
「えへへ。ごめんなさい。わたし素直じゃないのよ。おろろ」
「バカかおまえ」
 わたしはにんまりと微笑んで、皿をひっくり返すようにしてホルモンを網にくべる。
脂に火がついて、このまま冗談のように炎が上がればなお楽しいと、思う。