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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

わたしが見ているのはひとつの人生だったのだ

特別お題「心温まるマナーの話」 by JR西日本
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/jrwest

 

 結婚をして、それがきちんとした区切りになって、わたしはきちんとするのではないかと幻想を抱いていた時期があった。
 結婚は劇的にわたしをかえることはなく、胸の奥にある小さな悲しみというのか、虚しさというのか、人が人としてひとりであるという事実はかわることなく、いつでもわたしの中にあったのだ。
 その日、わたしは地元の駅にいた。
 いつまでも、行き来する電車を眺めていた。
 オレンジだった中央線は、様相を大きくかえて、銀色の、洗練されたデザインになった。淋しいなと、そう言っていた人々の気持ちが、その日少しだけわかった。
 武骨なオレンジの車両には、たしかに趣があった。可愛らしく不器用な、生真面目に走る電車という機械に、わずかながら命を吹き込んでいたのだ。
 わたしはなにをしていたのだろうか。
 日が傾いて、向かい側のホームには高校生のカップルがベンチに座っていて、いつまでも頬を寄せ合って話していた。
 とても親密に、ふたりだけの時間を尊ぶように、もはやそこだけが切り取られていて、世界からかい離した場所で、ふたりは幸福に微笑んでいた。
 ベビーカーを押す母親が、わずかに疲れた顔をして、空を見上げていた。
 偶然にもその母親を羨望の眼差しで見つめる、腹が大きく出た妊婦がいた。
 反対側のホームに、人生のサイクルがある。しっかりと、生から死までを教えてくれる光景があると、ふとわたしはそんなことを想いながら、夕暮れのホームに立ち尽くしていた。
 
 よくある表現だが、幼いころに家に近づくと、カレーかもしくはシチューの香りがして、うっとりと期待を込めて家に帰ることがあった。
 母が狭い台所に立って、その背中に「ただいま」と言う。母は暖かい声で「お帰り」と返す。
 ああ、わたしの家だった。カレーはわたしの家だった。なんて嬉しい一日なのだろうか。
 友達が口をきいてくれなかった。先生に怒られた。そういう悲しいことはあったけれど、お母さんの作ってくれたカレーが締めくくりにある。ならば今日はどんなことがあったとしても、いい一日だったではないか。そう思えた。
 いつの間にか、一日を覆すような、そんな暖かい体験をすることがなくなった。
 上司に叱られた。その前提として仕事で失態を犯した。満員電車で、せっかく座れたのにわざと隣人から圧迫された。濡れた笠を押しつけられた。降車の際に思い切りぶつかられた。
 結婚をしたのに淋しさが襲いかかってきた。
 
 人は、その日に様々な喜びを見出して、同じくらいに虚しさを味わう。
 けれど流してしまえばいいのだ。立ち止まらずに、電車のように進み続ければ、それは過去になる。
 こうやって駅にとどまっていることは危険だと、わたしは思った。
 向かいのホームでは、まだ高校生の恋人たちが優しく笑いあって、妊婦は穏やかに腹を撫でながら、時折ベビーカーの中を見る。ベビーカーを押す母親は、強張った顔と柔和な顔を繰り返し、愛情たっぷりな瞳には美しさがある。
 中央線は絶えず行き来する。
 わたしの愛したカレーライスの匂いが漂ってくる気がする、けれどその先には過去しかない。
 わたしが作らなければいけないとわかっていた。
 わかっていてなお、強く何かを求めている自分がいたのだ。
 それは真っ赤に染まった空の陽光の、そんな鮮烈なものではない、もっと些細なこと、そういうちっぽけな日常のなかに、わたしが生きている意味があったのだ。