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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

氷女

追憶の展覧会

特別お題「心温まるマナーの話」by JR西日本
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/jrwest

電車の中で悪寒が止まらなくなり、まだ診療時間ならば町医者に寄って行こうと思った。
 
電車は酷く混み合っていた。通勤電車に揺られているこの時間が、人生で最も無駄な時間であると思う。
 
悪寒ではなく、背中を密着させている背後の人が、冷たいのだと気がついた。
 
顔をちらりと窺うと、青白い顔の女性が苦しそうに立っていた。
 
吐き出されるようにして駅に降り立った。先ほどの冷たい女性も降りてきた。
 
熱ではないのだろうが、あの冷たさは異常だ。わたしは彼女の元に駆け寄ると、「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 
女は申し訳なさそうに頷き、「ごめんなさいね。冷たかったでしょう」と謝った。
 
氷女、彼女は自分をそんな風に表現した。
 
「普段は満員電車なんて乗らないように気をつけているのに、今日は大事な用があって」
 
「乗らないように?」
 
「ええ。だってこの冷たさだもの。周囲に迷惑がかかるでしょう」
 
氷女はそう言って、小さく笑った。
 
笑うと悲壮感漂う白い肌が、儚い花のようにも見えて、とても美しい人なのだと思った。
 
帰り道は方向が一緒だったので、なんとはなしに一緒に歩いた。
 
風向きによっては、右側を歩く彼女から冷気が流れてくるのがわかった。
 
お勧めのベーカリーを教えてあげると、氷女はお勧めのジェラート屋を教えてくれた。
 
「やはり冷たいものが好きなの?」
 
「もちろん。熱いものはまったく苦手」
 
氷女は真冬だというのに薄いスプリングコートを羽織っている。おそらくそれすらも脱ぎたいのだろうが、我慢して着ているといった様子だ。
 
せっかくなので、次の休日にジェラート屋に行ってみた。
 
暖かい店内でラムレーズンを食べていると、氷女がやって来るのが見えた。
 
わたしは「本当に好きなのね」と声をかけた。
 
氷女は少女のように目を輝かせて、「そうなの。でも、美味しいでしょう?」そう言った。
 
「うん。とても」
 
その日もとめどなく話をした。
 
わたしは上京してひとり暮らしをしているが、派遣社員なので不安が多いことや、絶望的に男運がないことなどを面白おかしく語った。
 
まだ二度しか会っていないのに、氷女とはずいぶん打ち解けて話している自分がいた。
 
それはきっと、彼女が普通の人とちょっと違うから、そうだからかもしれない。
 
氷女は冷蔵倉庫で働いていると言った。
 
そこは最高の職場で、休憩時間も出てきたくないくらいだと言う。
 
聞けばわたしたちの住んでいる場所は直線距離で一キロもなかった。
 
遊びに来なさいよ、という彼女の誘いに、素直に頷くことができた。友達なんてひとりもいなかったから、こうして誘われるのも初めてだった。
 
わたしは手土産として、FLOのタルトを買っていった。
 
とにかく暖かい格好で来てと言われていたので、普段はなかなか使わない登山用のフリースを重ね着して、さらにダウンジャケットを羽織ってきた。
 
じんわり汗が滲んでいたが、氷女の部屋に通されると、すぐに汗は引いた。
 
「ようこそ」とやはり少女のように透き通った微笑で迎えてくれた。
 
1DKの部屋は三台のエアコンが稼動していて、どれも冷房運転だった。
 
「ごめんね。寒い部屋で」
 
「予想してたから大丈夫。それに見てこの格好、だるまみたい」
 
氷女は笑いながら、よく冷えたビールを持ってきた。
 
「お昼だけど、いっとく?」
 
「いっとくいっとく」
 
それはそれは冷えたビールだった。身体の芯から冷えていく。
 
「ガスコンロなんかは使わないの?」
 
「大嫌いだけど、火はを我慢して使うよ。お風呂見てみる?」
 
ユニットバスに案内されると、張られた水に氷がいくつも浮かんでいた。
 
氷水でないと疲れが取れないの、そう言って悪戯っぽい目をする。「入ってみる?」
 
「まさか」
 
「だよね」
 
氷女はご飯を用意してくれていて、かぼちゃのビシソワーズやトマトの冷製パスタ、マンゴーのソルベが並んだ。
 
どれもとても冷えていて、素晴らしい味付けだった。
 
満腹になると、急速に眠気が襲ってきた。
 
横になると、エアコンだけではない。巨大な冷蔵庫が二台、口を開けたまま運転していた。
 
どうりでこんなに寒いわけだ。
 
座布団は冷却ジェルの入ったシートだったから、やはり寒かった。
 
「眠ったらダメ」
 
氷女はわたしを揺り起こした。
 
眠ったらダメなのよ。もう一度、氷女は言った。