卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

星々の残像

お題「好きな街」

夫婦で温泉に来るのは、実に四年振りだった。
 
ひとり息子を妻の実家に面倒を見てもらって、山奥の温泉に来たのだった。
 
妻は育児に追われ、僕は会社の打ち出した人員削減によって仕事ばかりの日々が続いた。
 
その歳月を振り返ってみると、きっと日々の中には喜びや悲しみや、様々な出来事も感情もあったのだろうが、なにひとつ思い出せない。
 
ただ時間を浪費して、四年間生きたという結果しか残っていない。
 
陽の暮れた風情のある小道を歩きながら、そんなことを妻に言ってみる。
 
旅館から続くこの小道を抜けると、露天風呂があるのだった。
 
「そうねえ。でもみんなそんなものじゃないかなあ」
 
「そう?」
 
「たぶん。充実しているように思っても、その逆でも、たいしたことはやってないのよ。人間なんて」
 
妻にしてはずいぶん達観したような、もの淋しい言葉だった。
 
「わたしもさ、あの子は四歳になったわけだけど、今までそれはそれは可愛かったの。けどね」
 
サンダル越しに砂利を踏む感触がくすぐったい。道は少し傾斜している。
 
前から我々よりも若干若いふたりが、手をつないで降りてくる。
 
どちらもなんら杞憂のない笑顔を浮かべて、互いを労わるように寄り添っている。
 
すれ違いざまに、女が「そうかなあ」と言っているのが聞こえた。
 
「そうだよ。今度やってみな」と男が返した。
 
なんの会話なのか分からないが、ふたりはとても幸せそうに見えた。
 
僕は妻の横顔を見た。それから「可愛かったけれど?」と促した。
 
「これから数年後には、もう子どもはわたしたちのためにあるのではなくって、あの子自身の人生を生きるわけでさ」
 
「難しいこと言うね」
 
「もうわたしたちは不要になるのよ。それが自立」
 
「そんな、大げさな」
 
妻はこの話の続きはやめて、大きく伸びをした。
 
迷ってしまうほど、豊富な種類の浴衣の中から、妻は水色の爽やかなものを選んだ。なかなか似合っていると思った。
 
暖色系が似合うものだとばかり思っていたが、そうでもなかったらしい。
 
新しい発見は、心を浮き立たせる。それなりに老いた妻だが、その皺や頬のラインや、様々な歳月が水色に染まっている。
 
木造の瀟洒な造りの建物が見えてきた。露天風呂に着いたらしい。
 
道の脇ではちょろちょろと流れる水の音が心地よい。淡い電灯に照らされて、別世界に来たような錯覚を覚える。
 
露天風呂は無人だった。
 
先ほどすれ違った恋人同士と入れ替わりで、貸切の状態だった。
 
僕は男湯で足を伸ばして、空を見上げた。数え切れないほどの星が、瞬いていた。
 
するとなぜだろう。急に悲しくなってしまった。
 
僕はこんな空をずっと見てこなかった。そこにあったのに、見ることをしなかった。
 
そんな生き方を、疑問も抱かずに送ってきたのだ。なにも不自由していないのに、著しい喪失感ばかりが襲ってくる。
 
「ねえ」
 
かすかに妻の声が聞こえた。
 
湯船から乗り出して、「あれ、そっちもひとり?」と尋ねる。
 
「そうなの。気持ち良いねえ」
 
「ああ、空がすごいよ。星ばかり」
 
しばらく静寂があった。妻も空を見上げているのだろうか。
 
「さっきの新婚さんさ」と急に妻が言った。
 
「新婚? 結婚してないんじゃない?」
 
「指輪してたよ。注意力散漫だなあ」
 
そんなとこまで見てないよ。心でそう思った。
 
「今度やってみなって男の人が言ってたじゃない? あれなんのことだろう」
 
「さあ。風呂上りだし、あれじゃない? 風呂上りの一杯とか」
 
「牛乳でもビールでもなく、実はワインが一番美味しいとか?」
 
「そうそう。そんなところだよ」
 
僕は適当にそう言うと、妻はまた静かになった。考えているようだ。
 
じっと空を見ていると、目に星が焼きつく。目を瞑っても、暗闇の中に星たちの残像が残る。
 
「わたしたちも今度やってみよう」また急に妻が言う。
 
どこか切迫したような、焦燥感に駆られるような口調だった。
 
「なにをさ」と言ったところで、背後のドアから宿泊客が入ってきた。
 
女湯にも入ってきたのか、妻はそれきり返事をしなかった。