卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

感情の代償

感情を表に出してはいけない。わたしは毎日心がけている。

先日のことだが、無理難題を吹きかけてくる上司に、つい反抗してしまったのだ。

こんなことばかりできませんと、声を荒らげてしまった。

その夕方に、国民的アニメであるサザエさんの放映中止が決まったとニュースになった。

抑えようとすればするほど、その反動は大きくなるものである。

電車内だというのに携帯電話で話している若者がいた。

別に人と会話している乗客だってたくさんいるのだから、携帯電話だって構わない。そうわたしは思っている。

しかし声が大きすぎた。下品な笑い声を上げ、明らかに周囲は不快そうであった。

思わず「やめなさい」と男に向かって言い放ってしまった。

怒りをこめたそのひと言を口にした瞬間、しまったと思った。

男は素直に謝り、すぐに携帯電話をしまった。それでもわたしの心は晴れなかった。

駅に降りると、空からテルテル坊主が降ってきた。

ぽとりぽとりと、白いテルテル坊主が落ちてくる。

これでまた、不可思議なニュースをひとつ提供してしまった。

わたしが感情を露わにすると、この世の中で起こりえないはずのことが起きてしまう。

同僚の若林さんへの憧れだけは、止められなかった。

友人とそのまた友人と飲みに行ったときに、若林さんとは懇意になることができた。

誠実そうでよく笑い、ちょっと不器用なところが可愛らしくて、わたしはやはり彼を好きだと思った。

この感情は、止めることができなかった。

翌朝のニュースで、日本中のエビがエビフライになったという報道があった。

わたしは頭を覆った。

なぜなのだ。世界に変化が起きるとしても、なぜ微妙に負の変化しか起きないのか。

職場で若林さんを見つけるたびに、その姿を追った。

時には勇気を出して話しかけることもあった。

話してみれば、彼は笑顔で応じてくれた。そして趣味のことなんかも話すことができて、日に日に距離は縮まっていくのだった。

そして変化は起き続けた。

日本中の起き上がりこぼしが寝たきりになった。

猫は長靴を履くようになった。飼い主が脱がせようとして噛まれる事故が多発した。

牛丼チェーン店がこぞって値上げ競争を始めるようになった。

東京ディズニーランドは千葉ディズニーランドに改名してしまった。

それでもわたしはこの恋心を止めることはできなかった。

だって、世界を変化させないためにわたしは天涯孤独に生きろというのか。それではあんまりだ。

その日も若林さんと話した。思い切って食事に誘ってみた。もちろん、と彼は承諾してくれた。

北島三郎が、レコード大賞の新人賞を獲得した。

それからのわたしたちは、ゆっくりと降り積もる雪のように、愛を育んできた。

関西人がお好み焼きを食べなくなり、納豆の消費量が日本一となった。

東京湾で流氷が観測された。

そして夜景のよく見えるレストランで、若林さんは結婚したいと言ってくれた。

二度も噛みながら。そんな姿が、やはり可愛らしいと思った。

わたしは幸福の絶頂にいた。これ以上の幸せはないのかもしれない。

わたしは今、人生でもっとも輝いているのかもしれない。そう思った。

翌日、若林さんという存在は、消滅した。