卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

あの子がいた町

 その日は僕らの家で人気者だったペルが帰ってくる日だった。
なんで帰ってくるとわかったのかって思うかもしれないけど、数日前から鳴き声がしたんだ。お母さんもお父さんもペルの鳴き声を聞いたし、もちろん僕もワワンを聞いた。
ペルが久しぶりにくるんだから、大好物だったビーフジャーキーを買ってきた。
「それにしても、食べるのかな」とお父さんは不安そうで、
「食べるに決まってるじゃない。あんなに好きだったんだもの」とお母さんは自信満々で、
「でもさ」と僕はもっともっと食べ物以外のことを考えていた。
 一年ぶりにペルに会うのだから、何かもっともっと用意しなきゃいけないものがあるように感じた。

 ペルは深夜にやってきた。
庭先に白い綿菓子みたいなのがふわふわ歩いてきて、僕らは三人で縁側に座っていた。ペルだなってすぐにわかった。
 いつもいつも舌がでていて、一度病院に連れて行ったら、歯が小さいからでしょうね、そう白髪のお医者さんが笑っていた。

 ペルは急に走り出して、やっぱり舌は出ていて、そしてとても嬉しそうだった。はじめに僕の膝に飛び込んできてくれたのは、今でも忘れられない。
  くうんくうんて言うのだけど、思わず僕も泣きそうになってしまって、でも言葉はでなくて、お母さんは隣で素直に泣いていた。やっぱりかわいいねえ。おまえのおかげで楽しかったねえ。そう言っていつまでも泣いていた。

 ペルがいた頃は、なにもかもがうまくいっていた。
会話が途切れると、ペルは必ず起き上がって、誰かのところに歩いていった。舐めたりじゃれついたり、とてもいいタイミングでペルは存在感を示した。
お父さんとお母さんは喧嘩をして、「じゃあ出て行け!」と怒鳴り散らした父に、珍しく飛びかかって行ったのはペルで、あまりに突然のことだったので全員が驚いたのだった。

「おいおい。なんだか信じられないなあ。本当に戻ってくるなんてなあ」
 お父さんは鼻をすすりながら、とても弱々しい声でそう言った。お父さんは気難しい人だけど、ペルにはとても優しかった。
毎日散歩に連れて行ったし、夜遅くにこっそりと寝室を覗いたとき、頬杖をついてペルの寝顔を眺めていたことを、僕は知っている。
「しょせん犬だ。寿命が短いのは仕方ない」
 かつてお父さんはそう言った。強がりだなって思った。現に、その夜お父さんはふらりと家を出て行き、かつて毎日のようにペルと歩いた川べりの道を、ひととおりなぞっていた。
ずっとずっと後をつけながら、僕はちょっと悲しくなった。お父さんがあまりにも寂しそうに歩いていたからだ。
小さな小さな骨になって、それを奉納しに行ったとき、お父さんは急に泣き出した。
「なによもう。だらしない」とお母さんは茶化した。
「家族が死んだんだ。泣いてなにが悪い!」とお父さんは声を張り上げた。
 僕も同感だった。

 餌係はお母さんで、「ちゃんと煮えてるかしら」とササミを念入りにチェックした。僕らの食べるから揚げは火が通っていないこともあったのに、「チンしてくれば?」と興味もなさそうに言うのがお母さんだった。
 闇夜の庭にペルの白が浮き立って、お母さんは何度も頭を撫で、話しかけた。お父さんは頬擦りをして、言葉がうまく出てこないみたいだった。
そして僕は、僕はただ、ペルの笑っているような横顔を見ていた。
「じゃあペル。散歩に行くか?」とお父さんは両腕を広げて言った。
 ペルは飛び跳ねて喜びを表現した。
 
 満月だった。
僕とお母さんは、彼らの後姿を見送り、それから家に入った。
ひと言も言葉が出てこなくて、それはきっとこの行き場のない寂しさが原因なのだと感じた。
「ねえ。行ってみようよ」
 僕はこらえきれずにそう言った。お母さんはすぐにエプロンを投げ捨て、靴を履いた。ほとんど小走りの状態で、僕とお母さんはペルたちを追った。
川べりの一番美しい芝生のところで、お父さんがペルの頭を撫でていた。
さみしいなあ。
そんな言葉が聞こえたような聞こえなかったような、気がした。

 それから僕らは四人で歩いた。
どこまでいっても川は流れていて、闇は優しくて、明かりは満月で十分だった。
ペルは一度だけ吠えた。
そこはずっと前に、僕ら家族がレジャーシートを敷いてお弁当を食べた場所だった。ペルはまだ子どもで、ずっと僕が抱いて歩いてきたのだった。放してやると、怖がりながらも興味深そうに草むらの中を歩き回って、それからお母さんの作った玉子焼きを食べた。

 そっか。ペル。あんなに小さかったのに、覚えていたんだね。ここは僕たちの始まりの場所だったもんね。
お父さんも思い当たったのか、ペルの首輪を外してやった。
ペルは白い綿菓子となって、いつまでも舞っていた。
「明日になったらさ」とだけお父さんは言って、お母さんも下を向いてしまった。
僕らはただ白い乱舞を眺めながら、何か大切なものを取り戻そうとしていた。ペルが僕たちにくれた幸せと、僕らがペルにあげた幸せと。うん。僕たちはいつまでも家族だし、いつまでも仲良しなんだと、そう思った。