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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

市ノ瀬さんの塔 

  市ノ瀬さんが塔を作り始めたと妻が言った。庭いじりが趣味な市ノ瀬さんだから、新しい盆栽かなにかのことかと思った。

「聞いてる?」

「塔でしょ。ふーん」とほとんど聞き流してしまったが、実際にお隣の市ノ瀬さん宅を見て驚いた。高さは三メートルくらいだろうか、綺麗に木を組み合わせた建造物がそこにあった。五十歳に手が届こうとしている市ノ瀬さんは、小太りの体で汗をかきながら一所懸命に木材を切っていた。

「おはようございます」

 庭に出て声をかけてみた。「新しいパーゴラかなにかですか?」

「これはどうもおはようございます。いやね、塔を造ってみようかと思いましてね」と温厚な顔をほころばして市ノ瀬さんは汗を拭った。

 翌日に窓から覗いてみると、塔は更に高くなっていた。二階の屋根のちょっと下、つまり五メートルを越えているのではないだろうか。

「なあ」朝食の準備をしている妻に声をかける。「お隣さんさあ、なに造ってるのかな」

「塔でしょう」

「なんで? なにに使うわけ?」

「知らないわよ」

 手際よく大根のお新香に卵焼き、ほうれん草のおひたしに味噌汁と鮭の塩焼きが並べられた。

「塔ねえ。天体観測でもするのかなあ」

 気にしないようにしようと思うと、余計に気になった。

 僕は毎日窓から様子を観察し、たまに出て行って声を掛けた。

「今日も一日やるんですか?」僕は叫ぶように聞いた。

「どうもどうもおはようございます」と市ノ瀬さんは頭だけ出して答えた。「生き甲斐みたいなものですからねえ」

 市ノ瀬さんの頭と重なるように太陽があって、日食のような感じだ。塔は屋根をとっくに越えて、十メートルは優にあるのではないだろうか。

 翌週になると塔の最上部はずいぶんと地上から離れ、とても声が届きそうもなかった。市ノ瀬さんの奥さんに挨拶すると、困ったように笑った。

「まったくあきれますよねえ」

「でもすごい熱意ですよねえ」

 奥さんは塔から垂れ下がったロープに食料の入った袋を結んで、携帯電話で「どうぞ」と言った。ロープはするすると上に引き上げられていく。市ノ瀬さんの姿は、見えない。

 季節が変わる頃に、近所の高台から塔を眺めた。すでに塔はビルのような高さになっていた。資材をどうやって上まで運んでいるのかよく分からない。素人であるはずの市ノ瀬さんが建てた塔が倒れないか心配でもあった。

 

 今夜は空気が澄んでいて、美しい星空が一望できる。ふと市ノ瀬さんの姿を思い浮かべる。満点の星の下で、今も釘を打ち続けているのだろうか。それともしばし手を休めて、星々に思いを馳せているのだろうか。

 

 僕は決して見ることのできない、市ノ瀬さんの見ているであろう光景を想像しながら、世界を俯瞰してみるのだ。