卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

奇跡の料理人

秋葉原邦彦という料理人をご存じだろうか。
 
ほとんどの人が電気街の秋葉原と同じ苗字だね、そんな認識であろう。
 
ミシュランガイドで星を獲得したわけではない。そもそも自身の店すら出店していない。
 
職業料理人にはならなかった男である。
 
ではなぜわたしは彼を料理人として、冒頭で述べたのか。
 
その答えは彼の生き様にこそある。真の料理人。
 
これは彼の歩んだ、料理の作り手としての物語である。
 

秋葉原は昭和五十五年に生を受けた。
 
実家は八百屋を営んでおり、幼少から野菜中心の食生活を送っていたという。
 
当時を振り返って彼は言う。
 
「いやー野菜なんて食べたくもなかったです。今? もちろん大嫌いですよ」
 
野菜ソムリエの資格も持っている秋葉原だが、本当は野菜が嫌いなのかもしれない。
 
義務教育を終えると、秋葉原は両親の期待を裏切り、イタリア留学を決意する。
 
本場のパスタとピザと、そして女性の口説き方を学びに行きたかった。いやむしろ女のみが目的なんだよ。
 
そんなジョークを交えて秋葉原は語る。
 
「いやねーすごかった。パツキン最高ですよ。え? 食べ物? ああ、まあ美味しかったですね」
 
イタリアでの修行は現在の彼に深い影響を残している。
 
秋葉原の代名詞となったカテナチオベジタブル。
 
栄養素を逃さないレンジ調理はこのころに培われたと推察される。
 
帰国した秋葉原は、大手電気メーカーに就職する。
 
これには周囲が驚いたものだが、調理家電を追及することで料理の幅を広げるのではないか、そういった見方が主流であった。
 
ヘルシオ? しらねえよ栄養損失とか。だって野菜嫌いだし」
 
そんなシャイな一面を、彼は覗かせる。本音はあくまで隠そうという意図なのか。
 
営業職に就いた秋葉原は、歴代の炊飯器売り上げ記録を更新したという。
 
当時の上司はこう振り返る。
 
「すごかったですよ。もうね、入社当時からこいつはもっているなという感覚はありました。米を極めた男だと思いますよ」
 
秋葉原はイタリア留学の末、米に対する愛情を深めたのであろうか。
 
これについて彼の回答はこうだ。
 
「米? まあ野菜よりはマシですかね。そもそも魚沼産のシール張れば売れちゃうし」
 
秋葉原は三十五歳で決断する。
 
そろそろ家電を売るのではなく、自分で何かを生み出そう、と。
 
趣味で続けていた料理だったが、趣味の領域を越える腕前となっていた。
 
もちもち感を増すために試行錯誤し、生地にタピオカ粉を混ぜたピザが近所で大流行した。
 
「いやね、一枚七百円で売ったんですけど、ぼろ儲けですよ」
 
秋葉原は頬を緩める。当時を回顧して、まばゆい希望に満ちていた自身を思い起こしているのであろうか。
 
彼は常人では到底こなすことができない、ある意味で修行を自身に課す。
 
舌の感覚を高めるために、舌で滝を受ける、滝修行を日課とした。
 
フライパンを返すための下半身を強化するため、坂道での負荷トレーニングを毎日こなした。
 
座禅を習慣化し、感覚で湿度を察するトレーニングも欠かさなかった。
 
秋葉原は正に、野菜を最高な状態で提供できるように身体を改造していったのである。
 
「もうね、準備は完ぺきでしたよ。ハンバーグなんて焼き音だけで肉汁たっぷりの、しかしきちんと火の通ったのが楽勝でさ。まあ僕じゃなくて助手がやるんだけど」
 
秋葉原はイタリアンに続き、洋食系も完璧に身につけていたのだ。
 
そんな中、彼を悲劇が襲う。
 
父親が心臓を患い、突如八百屋を閉めることとなったのだ。
 
「店? どうでもよかったです。野菜嫌いですから、まあ父のことは心配しましたけど」
 
料理人として真価が問われる時であった。当時の秋葉原の代名詞、「あー言えばこう言う。オウムピザ」には欠かせないバジルが入荷できないのだ。
 
秋葉原は陽気に考えていた。
 
「まああれですよ。別に料理で飯を食おうなんて思っていないですから」
 
彼は実家の八百屋を継ぐことはなく、かといってレストランをオープンすることもなかった。
 
ではなぜイタリア留学を? こんな不躾な質問を投げかけてみた。
 
秋葉原は胸を張って答えた。
 
「だってさー。野菜うざいもん。ちょーうぜー」
 
天才とは、時に無邪気であって、時に我儘であり、時に謙虚である。
 
秋葉原はこんな名言も残している。
 
「料理人? やだよー 野菜嫌いだし、そもそも立ちっ放しでしょ? ブロッコリーとかもはや森そのものの味じゃん。最悪」
 
彼は今日も、至高のひと皿を求めて邁進しているのである。