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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

プラントランド

今週のお題「植物大好き」

 

 かれこれメールのやり取りは半年も続いていた。テクノロジーが常に進化していくのは人間の進歩でもある。だから頭ごなしに否定するわけではない。しかし文字のやり取りで人間関係を育むというのは、どこか違うのではという部分もある。
 それが恋愛に発展する可能性があるとすれば、なおさらだ。
「とてもいい文章をかくんですね。あ、はじめまして。いつも楽しく読ませていただいてます。これからもよろしく」
 僕のブログにそんなコメントが入った。ブログというツールは二十年以上も前にできたもので、コメントがつくこと自体なんら驚くことではない。僕はいつものように反射的に「こちらこそはじめまして。こんなブログを読んでいただいてありがとうございます」と返した。
 その人は僕が記事をあげるたびに、コメントをくれた。「眠り姫」というハンドルネームで、少しセンチメンタルな人なのだろうかと思った。ネットの世界では簡単に性別を偽れるので、この人が男なのか女なのか、断定はしなかった。まあどちらでも構わないというのが本音だった。
 ひと月経つころになると、親しみの度合いは増していた。不思議なもので、毎日のように文字のやり取りをしていれば、例え住んでいる場所も性別も顔も性格も分からなくたって、親近感は増すのだった。
「たぶんあなたはひとりっこでしょう? わたしは姉がいます」
 親しくなってくるとありがちなのが、個人情報を知らず知らず書いてしまうことだ。もちろん僕は個人情報を収集したりしないし、知ってしまったからといって悪用することは確実にない。むしろより信頼されているようで、嬉しくさえ思う。
「よくわかりましたね。と言いたいところですが、兄と姉がそれぞれひとりずついます」
「あなたの書く、いや、紡ぐ言葉たちはいつも優しいですね。きっと実物のラシンさんも優しい方でしょうね」
「そのとおりです。蚊も殺せないから体中痒いくらいですよ」
 コメントでの掛け合いが、なんだかひどく楽しみだった。毎日家に帰るとパソコンを立上げ、真っ先に「眠り姫」からのコメントを確認した。
 ブログ上で僕は「ラシン」と名乗っていた。これは羅針盤の意味で、日々つらつらと書くことで生きる指針が見出せたら、なんて格好つけたことを考えていたのだ。
 コメントに書きにくいことは、直接メールで送られてきた。
「メールを送ってごめんなさい。ブログに載ってたからいいかなって。それにコメント欄だといろんな人に見られちゃうので。で、本題ですけど、わたしは名古屋に住んでいる女子二十二歳、冴えないけれど愛嬌があると言われます。あの、これ一応自己紹介です。ではでは」
 メールできたこの自己紹介に、僕は思わず噴出してしまった。「ではでは」って。面白いので、もちろん僕も返信してみた。
「面白いのはあなたのほうですね。眠り姫さん。よく眠れていますか? 僕はというと、静岡に在住の二十五歳。男性です。野球選手の永井怜に似ていると言われますが、残念ながら共通点は国籍だけです。ではでは」
 僕は留年して大学に入り、就職してすぐに辞め、今通っているのが早くも二社目だ。新入社員だから毎日が叱責の嵐だ。不動産業界なんてろくなところではない。
 だからブログでは夢のある話を書いている。大自然に覆われたプラントランドという架空の島を舞台に、特殊な能力を与えられた人々の物語だ。もちろん他国から攻め込まれることもあるけれど、大自然たちが人間に力を貸して、一緒に島を守っていく。幼稚だと笑われそうだが、これが僕のささやかな楽しみだ。
 今日もパソコンを起動して、その間にネクタイを外した。ネクタイを外すと、途端に仕事モードは終了する。四件も内覧して、あっさりと客を帰らしたことで、今日はこっぴどく説教を食らった。高見という先輩は、どんなことでも必ず僕をしかりつける。そういう人なのだと思う。
 ミニ冷蔵庫から缶ビールを取り出して戻ると、パソコンはすでに起動している。新規メールが一通きている。慌ててクリックした。
「こんばんは。お仕事終えるのが今頃ですね? あ、ストーカーでないです。距離離れてるし。いつもこの一時間後に更新だから、逆算すると今頃お帰りかなって。今日は何を食べますか? わたしは食べることが大好きです。このごろあまり食欲がないですが。静岡は海があっていいですね。毎日泳いだりして。突然ですが、わたしが初めてラシンさんのブログにコメントして、もう半年近いんです。その記念に、じゃーん。顔写真を添付しました。どうです? 美人すぎて七転八倒? ではでは」
 苦笑した。七転八倒もそうだが、そもそも静岡だって海のない町が大多数だ。僕の町も海なんてない。そして淡い期待感とともに、添付ファイルをクリックした。この人の性格上、ミニーマウスの画像とか添付されているに違いない。予想外にも、そこには黒い髪を束ねた、化粧っけのない女性が映っていた。微笑みはどこか淋しそうで、特にポーズもとっていない。白い壁は清潔感があった。
 そうなると僕も送らないわけにはいかなかった。画像ファイルを開いていくが、実家にいる犬の写真ばかりだ。さすがに犬に文字は打てないし冗談としてもつまらない。ならばと今から撮るためにデジタルカメラを用意した。ネクタイをしていないけれどいいだろうか。それとも着替えようか。まあいい。テーブルの上にカメラをセットし、タイマーで撮影した。とりあえず爽やかではないものの怪しくもない疲れた男が映った。
「あんまり美人だったので驚きのあまりキーボードを強く打ち込みました。おかげで「アットマーク」が壊れて打てませんよ。静岡に海はありますが、この町にはないんです。魚が食べたくなると海に行って、潜って捕まえてきます。この間はシイラって魚をエイヤ! で捕らえましたよ。名古屋はお城がありますね。ツインタワーでしたか? 駅の。あれも目立ちますね。そうそう、せっかくなので美男子の写真も送ります。イケメンすぎて悲鳴を上げないでくださいね」
 送信ボタンを押すと、胸がほんのりと暖かくなった。なんだかとても彼女に、興味が沸いてくるのだった。
「写真拝見しました。本当にイケメンですね。つい叫んでしまって警察を呼ばれてしまいました。強盗でも入ったのかって心配されてしまいましたよ。名古屋はモーニングがすごいんですよ? 量が多くてね、例えばトーストなんて五枚くらい当たり前です。卵もお皿からはみ出てるし、ケーキまででてくる始末です。コーヒーはポットに入って出てきます。もしもですけど、よかったら今度来てみませんか? 情熱の都へ。美人もいることだし」
「モーニング楽しみですね。前の日から食事を抜いて行くことにしますよ。僕も眠り姫さんに会ってみたいなって思ってたんです。ただあまりに美人だから緊張して話ができないかもしれません。そっか、念のためノートとペンを持っていきますね。筆談なら緊張しない。ところで眠り姫さんの本名はなんでしょう。今更ですが。まさか眠り姫さんですか? って声かけて人間違いだったら連行されちゃいますから。僕はラシンではなくて市井錬太郎といいます。錬太郎ってどうかと思いませんか? 祖父が瀧廉太郎を敬愛していて、それでですよ! 今度日程詰めましょう」
 僕は顔を綻ばせて、ビールを煽った。それから近所のスーパーで買ってきたお惣菜を並べ、炊いたご飯をよそう。近頃やっと会社にも慣れてきて、高見先輩も小言を言わなくなった。たまには呑もうぜ、などと奢ってくれたり、実は案外いい人なのだった。褒めるよりも厳しく指導して育てるタイプだったらしい。おかげでこの頃は成約率が上がり、若手社員の中ではトップ5だ。臨時手当まで頂く始末で、だからかブログ更新もはかどった。
「この頃明るい展開ですね! 読んでいると元気が出ます」
 そういったコメントがよくついた。
 物語は進行して、火の国の急襲に遭い森が焼かれるのだが、人々の涙が巨大な雨雲を呼び寄せ、雨粒がとめどなくプラントランドに降り注ぐ。森は全焼を免れ、人々は再生のために日々汗を流しているところだ。人と自然の共存を、必死に描いている。
 しかしひとつだけ、最大の懸念があった。あれから「眠り姫」のメールが途絶えていたのだ。二日三日はまだ焦りはなかった。あの年代の女性ならば旅行にも行くだろうし、突発的な用事なんかもちょくちょくある。僕のように規則正しく家と会社を往復しているわけではないのだ。
 例えば彼氏に見つかって、メールのやり取りなんてやめろと怒られたのかもしれない。それはそれで仕方ないが、僕は別に眠り姫をどうこうしようというのではない。ただウィットに富んだ彼女と、直に音声で話をしてみたいだけだ。その仕草や笑顔や真剣な表情を、見てみたかったのだ。
 コメントはくまなく読んだ。どこかに眠り姫の書きそうな言い回しはないものか、必死に探した。二週間経っても、兆候は見つからなかった。
「ご無沙汰しております。眠り姫です。ちょっと悪質なインフルエンザという病にかかり、寝込んでいました。今はすっかり回復して、トライアスロンにも出れるくらい元気です。瀧錬太郎さんもお元気ですか? 途切れていたお話の途中でしたね。わたしの本名は宮原夏樹といいます。素敵でしょう? 冬生まれなのに夏樹。名古屋へは本当にいらっしゃいますか? ちょっと強引だし、お仕事もあるでしょうからまた違う機会にしましょう。ではでは」
 手を叩きそうになった。やっと返事が来たことに感動し、なぜこんなに沸き踊るのかと赤面した。まるで初恋の人から手紙を貰ったような高揚感だ。しかし一ヶ月近く待たされたメールだ。宮原夏樹。口にしてみるとしっくりきた。
 その日はタイピングがはかどり、人間はプラントランドから木々を頂いて家を作り火を炊き、そのかわりに自然たちを守るという物語を書き進めた。テクノロジーをあえて放棄し、それは隣国に弱みを見せ付けることになるが、自然と人間が力を合わせればどんな兵器にも打ち勝てる。そんな理想をこめた。
「よかった。あ、よかったってのはインフルエンザになったことでなく、回復してお返事をくれたことです。こういうメールのやり取りって、どちらかがやめてしまったらもうどうにも連絡手段がないんですよね。とても恐ろしいことです。名古屋はぜひ行きますよ。夏樹さんに会って色々とお話を聴いてみたいし。それにそのために昨日から何も食べてません。今週末、いかがでしょうか」
「こんばんは。ひどい雨でしたね。そちらも降りましたか? 雨はとても好きです。どんな不安も悲しみも、一定のリズムで洗い流してくれるようで。この雨で悲しみが霧散したら、どんなにいいだろうと思っています。ごめんなさい暗いことを書いて。週末ですね。分かりました。高島屋が目立ちますので、その入り口にいますね。見つからなかったら眠り姫! て叫んでください。警察がすっ飛んできますから」
 生憎大雨だった。新幹線を降りると、ホームにいても濡れるくらいにひどい雨だった。しかし宮原夏樹は雨が大好きであるということだから、これはこれでよいのかもしれない。
 高島屋はすぐに見つかった。大勢の人が待ち合わせなどで立っていた。送られてきた画像によく似た女性がいるのだが、髪の長さが決定的に違うために、話しかけるのを躊躇した。目が合うと、その女性は微妙な笑みを浮かべて、綺麗に会釈をした。僕も反射的に返した。
「はじめまして。宮原です」
「はじめまして。びっくりですよ。髪を切ったんですか?」
 僕がそう言うと、彼女は初めて気がついたように髪に手をやった。
「そっか。そういえば長かったですものね」
「女性が髪を切るのって一大事だと聞いたけど、忘れちゃう人もいるんだ?」
「そうみたいです」
「よかったですね。天気も良くて」
「良い? ああ、雨ですね。そういうことか。錬太郎さんはメールと話し口調が同じでおかしいです」
 ふふふ、と宮原は小さく笑った。体の角度を変えたので、歩き出す合図なのだと思った。
「ブログにコメントをくれる人がいて、実際にこうして会ってみるのってとても不思議です」
 僕は思ったままを言った。なんだろう。文字情報しかなかったものが、急に眼前に命をもった人として存在するのだ。これは不思議な感覚だった。
「そうですよね。ただ」
「ただ?」
「ううん。ちょっと長い話になるかもしれないから、ゆっくり座れる場所に移動しましょう」
 連れてこられたのは、見慣れたスターバックスコーヒーだった。時間的なものもあるのか、空席が目立った。ゆっくりと話すには最適な場所だ。 
 何も言っていないのに、宮原夏樹は二つのカップを持ってきた。
「おいくらでした?」
「まさか! 無料なんですよ名古屋のスタバは」
「そうやってかついでますよね?」
「ふふふ。せっかく来てくださったのだから、せめてコーヒーくらいご馳走させてください」
「空腹にコーヒーですか」
「まさか本当に昨日も一昨日も食べてないんですか?」
 僕が神妙に頷くと、彼女は探るような目をして言った。
「そうやってかつぐんだから」
 思ったよりも表情は豊かで、化粧もとても自然に、しかししっかりと抜け目なくされていた。違和感が、心を掠めた。
「先延ばしにしてもまずいから、最初に言わせてください」
「はい」
「妹の夏樹は、夏樹は二十日前に亡くなりました。静かに、息を引き取りました」
 店内から、音が消えた。人は想像を越えた言葉には感嘆するが、想像を越えすぎた言葉には思考が停止するのだろう。
「迷いました。あの子は病床でもずっとあなたの、錬太郎さんのブログを楽しみにしていて、その世界観がどれほど素晴らしいか、どれほど感動を与えるかを毎日のようにわたしに語りました。あの子にさほど希望はなかったはずです。でも錬太郎さんの話をするときの輝いた目は、夏樹が確かに生きていることを」
 そこで彼女はひと筋の涙を流した。雨粒のような、自然の涙だった。
「あの子は作者に会いたがっていました。まるでそれが最後の使命のようでした。きっと余命とあなたの物語を考えたときに、結末まで読むことは不可能だと悟っていたのでしょう。だから会わせてあげたかった。その矢先に、容態は急変してしまいました」
 プラントランド。そこは僕の逃げ場所だった。争いのない世界。そんなものは未来永劫訪れないことを知っていた。だからせめて、僕がその世界を作り上げたかった。争いと別れは、どちらが悲劇なのだろうか。
「遺品を処分しているときに、妹のパソコンからメールを見つけました。オートログインだったからつい見てしまいました。それについてはごめんなさい。で、どうしようかと悩みました。姉のわたしがあなたに会うことに意味があるのか。それはあなたに対する侮蔑になるのではないのか。死んだ妹にもなんらメリットはない」
「夏樹さんは、あの物語についてどんなことを?」
「この作者は、きっとたくさんの絶望を見てきたんじゃないかって。死が近い自分には分かるって。そういう世界観があると。もしも死後の世界があるのなら、むせ返るほどの緑が茂る世界に行きたいと」
「そうですか」
 溌剌とした挨拶を、店員が発していた。
「今日は来てくれてありがとうございます。錬太郎さんは本当に素敵な人でした。イケメンで叫びたくなるくらいに」
 彼女はそう言って無理に笑った。
「よかったら、お線香でもあげにきてください」
「ぜひ」
 駅を出るとタクシーを拾った。雨は路面を叩きつけていて、街が白くけぶっていた。
「タクシー代こそ払いますからね」
「知らないんですか? 名古屋のタクシーは無料ですよ」
「そういうとこ、夏樹さんにそっくりです」
 言ってみて、愕然とした。夏樹さんにそっくりと言いながらも、僕は夏樹を全く知らないのだ。会いたいと切望し、言葉に酔いしれていたのに、永久に彼女に会えないのだ。その悲しみと絶望は、急速に肥大した。
「夏樹はね」
 静かに彼女は語り始めた。
「あなたの世界に行きたかった。つまり、あなたの世界になら生きていける何かがあると信じていたのよ」
 風景は次々に展開していく。われわれの存在など無視して、行き過ぎる。
「絶望の中に見出した希望だったのよね」
 僕は初めて、生きた出会いというものを実感した。電子データでしか夏樹を知らなかったが、それでもあの言葉たちは確実に生きていたのだ。生きていたからこそ。それ以上考えると涙があふれそうで、再び窓の外に視線を外した。
 巨大な緑が現れた。看板に東山植物園とあった。都会に突如出現した公園は、スコールのような雨で生命が溢れていた。
「プラントランド」
 僕は小さな声で呟いた。
「え?」
 もう一度プラントランドと口にしたが、タクシーが大きく右に曲がって、雨音とともに言葉はどこかへと消えてしまった。