読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

モノクロームの世界

この街に希望はあるのだろうか。わたしは窓辺に立って、街を見下ろす。
 
赤ワインを立て続けに飲みながら、在庫の確認をする。チーズはとっくに手に入らないから、この頃は乾燥肉でワインをたしなんでいる。
 
太陽はどこにあるのだろうか。明るくも暗くもない。どんよりとした雲間から、幾筋かの陽光が世界を照らしている。
 
希望という言葉も、すいぶん虚しいものになった。
 
この世界では、希望という言葉は死滅したのだと、最近わたしは思うのだ。
 
電気が止まり、強固と言われた都市ガスも先月止まった。政治や行政がどうのこうのという状況ではない。
 
この世界にはもはや秩序はない。
 
この窓から見る世界は、果てしなく壊れた世界である。壊滅して、そして誰もそれを修復できない、そんな世界である。
 
鳥の群れが上空を横切っていく。群れた黒い影が、地上に染みのような跡を残していく。
 
わたしは端末を開いて、通信キーを押す。すぐに応答があり、「元気?」とだけ短いメッセージが送られてくる。
 
夫は戦地にいる。男たちは常に戦場にいるのが当たり前である。
 
そもそも戦地に赴かなければ生活は成り立たない。従って、わたしたちに戦争の根本を論じる資格はないのかもしれない。
 
何と戦っているのだろう。わたしは時折思うのだ。
 
国という概念もなくなり、人種や宗派などというくだらない前提も滅んだ今、わたしたちは何と戦っているのだろうか。
 
爆発音が鳴り響く。
 
二キロくらい先で、銃撃戦が起きているのが見て取れる。
 
双眼鏡から見てみれば、異形の笑みを浮かべた男が、老婆を追い込み射殺している。
 
その背後から数人の若者が斧を持って駆け寄ってきているのもわかる。
 
狂った世界に、わたしは戦慄を覚える。
 
窓を高速で過ぎて行った人影がある。慌ただしいが、今のはこのマンションの屋上から飛び降りた人間だろう。
 
アスファルトで潰れる、見知らぬ人間の冥福を祈る。そう、まだわたしには命を尊ぶ気持ちは残っている。
 
わたしは、人間の、人間としての尊厳は失われていない。そう励ます。
 
ため息をついて、わたしは部屋の中央に置かれた鳥かごを見やる。
 
希望、と名付けたインコは、優雅に羽を広げわたしを歓迎している。
 
ピイピイと、殺戮や混乱からは無縁な声を出してくれる。
 
わたしは笑う。笑うのはこの子に接するときだけかもしれない。笑って、「お腹空いたの?」そう語りかける。
 
ピイピイとなくインコは、羽ばたく素振りを見せて、そしてそれはとても美しい姿でもある。
 
わたしは反射的に、アンティークの机の引き出しから、銃を取り出す。
 
こめかみに当てがって、引き金に力を込める。
 
防音マンションだから、悲鳴や銃声や、威嚇や、怯える人々の声はほとんど聞こえない。
 
もう一度窓の外を見る。
 
赤黒い水たまりのような染みはあちこちにある。当然そこに横たわっているのは人間である。
 
彼らは、誰に回収されるわけでもなく、カラスの餌になったり腐敗したり、もしくはおぞましいことに人間の食料となったりもする。
 
空には相変わらず群れをなした鳥たちが舞っている。
 
空は厚い雲に覆われて、灰色の世界がまるでモノクロームのように、この街を変容させている。
 
夫はいつか死ぬのだろう。それは覚悟している。
 
決して生き残ることのできない戦いなのだ。そもそも戦いとすら呼べないくらいの無謀な戦争なのだ。
 
戦う相手すら分からない、不毛な戦争なのだ。
 
引き金に、さらに力を込める。
 
原色のような黄色いインコは、わたしを見つめている。愛らしい目をしている。
 
この子にエサをあげてあげられるのはわたしだけだ。
 
世界を滅ぼすのはわたしを含めたすべての人間であるが、この子を守れるのはわたしだけなのである。
 
矛盾した理論である。
 
そんな事実に苦笑しながら、真新しい血痕を思い浮かべながら、わたしは銃を降ろしてワインを飲み干してみる。