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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

捕まりたい男

会社を首になり妻に逃げられ、ギャンブルに溺れたらとんでもない借金を抱えてしまった。
 
もう死んでしまおう。四十二歳にして、僕の人生は何の価値もない、ゴミのようなものになってしまった。
 
選んだビルの屋上は、春のさわやかな風が吹いていた。遠くの山々も一望できる。
 
世界はこんなに美しいのになあ。
 
僕は迷わずフェンスを乗り越え、その高さを想像して震えた。
 
すると視線の先に女性が、いた。
 
腰壁に手をかけ、それはまさしく飛び降りようとしているとしか考えられなかった。
 
僕は走りよって彼女を引き寄せた。女は驚いたような顔をしている。
 
「ダメですよ自殺なんて。僕なんか借金まみれで独り身で話し相手なんて借金取りだけで」
 
そうまくし立てると、女性は大粒の涙を零した。小さな声でありがとうございます、とそう言った。
 
そう言った手前、僕も死ぬ気が失せてしまった。ビルを出て、途方にくれる。
 
内臓でも眼球でも売ってこいや。昨日浴びせられた恫喝を思い出す。
 
彼らから逃げたい。死なずに逃げるには、そうか、警察だ。
 
警察に捕まってしまえばいいのだ。刑務所に入れば食事にも不自由しない。なにより安全だ。
 
すぐに目についたコンビニに入った。飲み物を両手に持ち、そのまま店を出た。
 
「万引き!」
 
叫び声が上がって、僕は足を止めた。とりあえず窃盗くらいで捕まることにしよう。
 
しかし店長らしき男は、僕の脇をすり抜けて走っていく。その先にはリュックを背負った若者がいる。
 
僕は自然と走り出していた。学生時代に陸上部で鍛えた身体だ。鈍ってはいるがこのくらいの距離ならすぐに縮められる。
 
リュックの男に飛び掛ると、そのままもんどりうって路上に転がった。
 
コンビニ店長から何度も礼を言われ、新商品だという弁当まで渡された。
 
公園で弁当を食べながら、警察に捕まるのも難しいものだと考えた。
 
空き巣ならどうだろうか。
 
僕は敢えて防犯カメラの設置してある、さらに警備会社のロゴが張ってある邸宅を選んで、壁を乗り越えた。
 
広大な庭を堂々と進んでいくと、途中で拾った石で窓ガラスを割った。完全な犯罪行為である。
 
内部に侵入すると、とりあえず形だけでも荒らさなければといくつかの部屋を物色した。
 
そして和室に老人が倒れていた。
 
脈を確認するとまだ息はある。すぐにこの家の電話から救急車を呼んだ。
 
身内でもないのだが、当たり前のように同乗させられ、病院へと向かった。
 
脳梗塞だったが、発見が早かったために心配はないと医師が説明した。
 
集まった親族たちから頭を下げられ、赤の他人の僕がなぜあそこにいたのか疑う者すらいなかった。
 
中には、この方がたまたまうめき声を聞いて家に入ってくれたのね、などと曲解する人までいる始末だ。
 
病院を出ると疲れが押し寄せた。
 
僕は犯罪に向いていないのかもしれない。
 
暴行や殺人なんてする度胸はない。もっと軽いもの、目に入ったカレー屋に入った。
 
チキンカレーにカツカレー、豆カレーにポークカレーと、あらゆるカレーを読み上げた。
 
店主は怪訝な顔をしたが、無言で料理を並べていった。
 
さて、これがシャバでの最後の食事だ。そう思うと勢いがついた。
 
瞬く間に平らげると、「はいはい無銭飲食ですよ」と自己申告した。
 
しかし店内からは拍手が沸き起こる。
 
店主は壁を指差した。カレー十人前完食で金一万円。
 
僕は膨らんだ腹をさすりながら、やはり刑務所は遠いところだと、そう感じた。