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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

美しい人

いつから希望を口にしなくなったのだろう。
わたしはオープンカフェのテラス席で、ふと思った。
陽射しは柔らかく、緑は吸い込まれそうな美しさで輝いている。
子どもを保育園に預けて、久しぶりの休暇をこうやってひとりで楽しんでいる。
「お砂糖は?」
「結構です。ありがとう」
何かを考えたいときに、わたしはこのカフェにくる。
店員も顔を覚えてくれていて、かしこまりすぎず、適度な距離感で接してくれる。
「珍しいですね。サンドウィッチ」
黒い清潔なエプロンをつけた彼女は、とても細身だが魅力的な身体のラインをしている。
若くて健康的で、そこにはつまり希望が溢れている。
「そうね。全粒粉のクラブサンドって響きがね、今日はちょっと惹かれたの」
そう答えると、品の良い笑顔を浮かべたまま、彼女は厨房へと消えた。
そしてわたしは再び思う。
いつから何かをしたいではなく、何かをしたくないとばかり考えるようになったのだろうか。
かつては無謀であったり馬鹿馬鹿しいと嘲笑されることでも、正しいと信じて「したい」と思ってばかりいた。
いつの間にか、わたしの人生には「したくない」ことばかりを、ただ避けるだけのことが主題になってしまった。
「守りに入っているのかなあ」
ぼんやりと、小鳥が花をついばむのを眺めた。
「いいじゃないですか」
突然背後から声をかけられて、びくりとしてしまった。
わたしと同年代と思われる、淡い水色のブラウスがよく映える女性が微笑んでいた。
同じ女性から見ても、まさに花が咲いているような際立った美しい人であった。
といって必要以上に目立たず、発見してはっとするような、そんな儚い美しさだ。
「ご一緒しても?」
とやはり美しい声色で言われると、わたしは喉がからからに渇いてしまって、ただ頷いた。
「わたしもね」女性はこちらにティーカップを持ってくると、すぐに店員が水の入ったグラスや食べかけのジェノベーゼパスタやカトラリーを運んできた。
「わたしも逃げているもの」
「そんなふうに見えません」
すぐさまそう答えた。なぜ即答してしまったのか、自分でも不思議だった。
女性は小さく笑った。「でも、逃げているんだなあ」と歌うように言った。
「きっと子どもができて、なんだかもう自分の人生は自分が求めるものではなくって、子どもが求めるものを補完するのがわたしの存在意義なのかなって、あ、ごめんなさい」
「わかるなあ」
わたしの青臭い言葉に、彼女は笑顔を崩さずにそう言った。
いつの間にかクラブサンドウィッチが運ばれて、チーズやトマトやシュリンプやアボカドの色彩が、とても鮮やかだった。
夫は管理職になったことで仕事量が飛躍的に増大し、今や家族揃って夕食をとることは稀だ。
毎日忙しいという理由で、深夜に家に帰ってくるのだ。酒臭くても、それも仕事に含まれていることなのだ。
子どもと向かい合って、わたしたちは細々と食事をする。
休日もふたりだけのことが多く、できるだけプールや公園や、ときには遠出して遊園地や動物園に連れて行ってやる。
「洋服なんかも無頓着になっちゃって。前は岩盤浴やヨガにこっていたのに」
「そんなものよ。わたしだってスポーツジムには月に一回もいくかどうかだし」
「そうですか? とてもなんというか、素敵な体系なのに」
「太らない体質かも」
いたずらっぽく笑う彼女に、なぜだか先ほどからあれこれと素直に打ち明けてしまう。
「さっきさ、逃げてばかりって言ったでしょう?」
「ええ。言いました」
「わたしもね。これから長い期間逃げないといけないのよ」
小鳥たちの鳴き声が、陽だまりから聞こえてくる。
道路と敷地の間にはよく手入れされた植物が植えられ、本来あるはずの行きかう車たちは見えない。
どこかの高原に来たような、そして旅先で美しい女性に知り合い、ちょっと仲良くなったような錯覚を覚える。
「これから?」
「そうよ。気配を消して、孤独に逃げないといけないの」
女性は立ち上がって、伝票を取り上げた。
「そんな、ダメです。わたしの分はわたしが会計を」
「いいのよ。話しかけたのはこちらだし」
ダメですよ、と再度言いかけて、言葉を飲み込んだ。
珍しく女性が笑顔を失くし、真剣な、いや、敵意とさえ言える視線を送ってきたからだ。
「殺してしまってね。奥さんのいる男性を」
いつまでもわたしから視線を外さなかった。
わたしが呆然としていると、彼女は再び柔らかい笑顔を見せて、ひらひらと手を振りながら、席を後にした。

お題「誰にも信じてもらえない体験」