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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

東京箱根間往復大学駅伝競走

追憶の展覧会
九区を走る仲間から受け取ったキュウリを、彼はしっかりと握り締めた。
 
ここまで百六十キロに及ぶ距離を運ばれてきたキュウリだ。
 
このキュウリには仲間たちの汗がしみこんでいる。
 
こころなしか、水分が抜けているように感じる。汗の塩分のせいだろうか。
 
ストライドは安定している。呼吸もクリアで、酸素が順調に満たされ、身体の隅々にまで血液が循環しているのが感じられる。
 
今日は格別に調子が良い。
 
この区間でいつもどおりのタイムを出せれば、今年の箱根は上位に食い込むことも可能かもしれない。
 
背後のワンボックスカーから監督の声が聞こえる。
 
いいぞ。その調子だ。入りは三分十秒台キープ!
 
四年生の彼にとっては最後の箱根駅伝である。意気込みは相当なものだ。
 
発汗量も問題ない。九月中旬のまだまだ蒸し暑い気温ではあるが、さほど汗をかいてはいない。
 
路面を蹴る足音がいつもより軽やかに聞こえる。力強く、しなやかな足音。
 
このメンバーならばシード権争いなんてことではなく、本当に優勝争いができるかもしれない。
 
おもわず笑みがこぼれる。
 
走っていて笑顔になれるなんて、やはり今日は調子が良い。まだまだ走りこんで調整している段階だが、早く本番を迎えたい気分だった。
 
彼が出場する予定である箱根駅伝本番も、今日と同じく十区である。
 
フィニッシュテープをトップで切る姿を想像する。信じられない光景だ。
 
フラッシュをたくさん浴びて、歓喜の渦に飲み込まれる自分。
 
自然と走りがさらに勢いづく。
 
おいおい! 調子良さそうだけどあんまり飛ばすなよ!
 
監督の声もよく聞こえる。調子が悪いと声すらよく聞こえないものだ。
 
右腕に握り締めたキュウリを掲げてみる。大丈夫、という合図のつもりだ。
 
車の中で苦笑する監督の顔が浮かぶ。
 
あの野郎、調子に乗りやがって。
 
まんざらでもない監督の苦笑。
 
ゴール三キロを切ってスパートをかけた。心臓が悲鳴をあげ、足の筋肉が限界まで緊張するのが感じられた。
 
呼吸も苦しい。ここからはもう精神的な戦いだ。
 
重力というアスファルトからの反動に、意地で跳ね返す。いわば重力からの解放を目指す反抗みたいなものだ。
 
最後まで思うとおりの走りが出来た。彼は満足げに頬を叩き、それを合図にペースを緩めた。
 
ゴールタイムは昨年優勝した大学より二十秒早い。
 
もちろん箱根のように山もないコースで、要素が全く違うので参考にはならないが。
 
彼はクールダウンのペースでその建物の裏口へやってきて、扉を叩く。
 
ごくろうさん。
 
優しい笑顔の親父さんがすぐに出てくる。
 
キュウリを渡すと、「今日もいいねえ」と満面の笑みを浮かべる。
 
親父さんの食堂で出されるキュウリの浅漬けは大好評で、しかし数量限定な理由はこういうことなのであった。

お題「朝ごはん」