読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

町の消失

追憶の展覧会

家に、帰れなくなった。

もちらん僕は酔ってなどいないし、若年性の認知症でもないはずだと思っている。

朝は普通に家を出た。最寄の駅まで徒歩十二分。中学校を通過して総合病院の脇を通り、コンビニの先が駅だ。

電車では新聞を読んで途中で眠ってしまい、危うく乗り過ごすところだった。

仕事は平穏だった。取引先と電話での確認を数件行って、会議に出て、その資料をまとめて、そんな程度で帰路に就いた。

いつもどおりに駅に降り立ち、さあコンビニの脇を通過して総合病院の脇を曲がり、中学校へと続く坂道を。

坂道はなかった。

ないはずはないので目を凝らすのだが、ないものはないのだった。

何があるかといえば、家とは反対側にある小さなケーキ屋と家電量販店だ。

つまり僕の近所だけがすっぽりとなくなっていることになる。

慌てて携帯電話を取り出して通話ボタンを押す。

アドレス帳から妻の番号が消えていた。ならば娘の番号はと探すが、そもそも娘はまだ一歳であった。

落ち着け。まだ太陽は傾きつつあるものの、町を照らしてくれている。

通りかかった初老の女性に声をかけた。

「この辺にレジデンス周永ってありますよね」

「れじでんす?」

「ええと、中学校の先の」慌てて言い直す。中学校のような公共施設の方が分かりやすい。

「ないわねえ。中学校というと東台中学校があっちにあるだけだし」

その学校は知っている。

「だけ?」

「後はもっと先の坂下中学校くらいかねえ」

嘘を言っているような素振りはない。ここにあったはずの中学校も消失している。

僕は駅まで戻り、コンビニに入った。迷わず地図を広げると、この町を凝視した。

なかった。僕のマンション周辺の一角だけが、地図からも消えていた。

脂汗が噴出した。なんとか妻の携帯番号を思い出そうと考えるのだが、090以降全く出てこない。

ならばと妻の実家に電話をかけた。そう、手っ取り早い方法ではないか。

数回呼び出し音の後に、聞きなれた義理の母の声が聞こえた。

「よかった。僕です。僕です」

「なんです。僕です詐欺?」

「違いますよ。高浜です」

「なあんだ健太さんね。どうしたの慌てちゃって」

「ちょっとあいつの電話番号が分からなくてですね。お母さんに教えてもらおうと」

「はいはい。ちょっと待ってね。何事かと思ったわよ」

すみませんと謝りつつ、とてつもない安堵感に満たされた。

やっと世界と再接続できた感じだ。

「おかしいわね。わたしの携帯に登録していたはずなのに。ないわ」

電話を切って交番に駆け込んだ。もう頼るのは警察くらいか。

息せき切って説明するのだが、「そんな住所はないなあ」と暢気な警官は言う。

「いやないはずないでしょう」と免許証を見せると、住所の部分は空白だった。

途端に警官の顔つきが変わり、疑うような視線を向けてきた。

「おたく。この免許どこで?」

逃げるように交番を飛び出した。

心臓が飛び出るくらいに走って、再び坂のある場所まで戻ってきた。

ゆっくりと歩いてみた。

僕の周辺だけが、この町からなくなった。

理由はわからないが、消失した。

時刻は七時だった。

娘をお風呂に入れ、寝かしつけるのは僕の役目だった。

妻は今頃料理の最終段階に入っていることだろう。

圧力鍋はカチカチ音を立ててトマトスープが煮込まれる。隠し味に白コショウを振って野菜たっぷりのスープだ。

娘の好きな子守唄を口ずさんでみた。

今日も泣いたりせずに眠れると良いのだが。

ゆっくりと眠れるだろうか、そう思った。

今週のお題ゴールデンウィーク2016」