卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

子育ての矛盾

 人生を振り返ることがある。
 いつからだろうか、人生というものはいつだって前にしかなくて、過去を悔やむことはもちろんあるのだが、いつでも懸念や期待はまだ来ない明日だった。
 明日だけを考えない年齢に、いつの間にかわたしはなったのだ。
 明日ももちろん心配だが、これまでどう生きてきたのか、人生が正しかったのか間違っていたのか、冷静に考えてしまうことが多くなったのだ。
 聡明な人はすぐに気づく。
 人生に正解も間違いもない。歩んできたことは変えられないし、すべては今の自分の糧になっている。
 だがひねくれているわたしは考えてしまうのだ。間違った人生をわたしは歩んできた。その結果ある今の自分とどう向き合うべきか、どう修正していくべきか、どこまで修正できるのか。
 子どもを育てるということは、ある意味で自身の反省をし続けることに通じている。
 子どもを叱ることの大半は、わたしはできていなかったのだと実感するし、健気に言うことを聞く子どもをとても不憫だと思う。
 それは大人だって廊下は走るし、きちんと片付けられないし、忘れものだってするという些細なことにも通じる。いくつになっても子どもじみた行いを繰り返す自分は、やっと気づくのだ。
 人間は大人という幻想をもとに、理想像を追いかけて大人になるのだが、それはただ長く生きてきたという実績でしかないのだ。
 老人は横断歩道のない場所を平気で渡り、電車では我が物顔で優先席に座る。携帯で通話することをマナー違反と考えないし、震災のときには我先にと生活物資を手に入れていた。
 でもそういう大人に、わたしもすでになっているのだろうと思うのだ。
 子どもの見本になろうという考えは、最近、捨てた。
 なれるはずがない。これほど愚かな大人が、ただ大きくなっただけの人間が、吸収力を最大限に発揮する子どもに、教えてあげられることを披露することはできない。
 むしろわたしができなかったことをきちんと伝えて、それができればずいぶんと人生は楽になるのだと、あなたのためになるのだと、それだけ伝えられればいいのかもしれないと、この頃は思うのだ。
 子どもを愛しているから、つい声を荒らげて注意してしまうけれど、子どものできないことはわたしもできなかったと、そうやって過剰にハードルを上げないことが大事なのかもしれないと、今頃わたしは気がついたのだった。

 

お題「ブログをはじめたきっかけ」