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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

風の男

追憶の展覧会

軽薄、だからねえ。僕は。

武彦は歌うようにそんなことを言う。

ちょっと雨が降ってきたみたいだよ。そんな口調で言うのだ。

そんな軽さ。この世に重要なことなどなにもないかのような軽さを、彼はいつも身にまとっている。

だからかもしれない。わたしはどうしてもこの人から離れられない。

誠実を示すことはとても難しい。誠実さを望めば、きっと幻滅しか待っていない。

武彦はいつものように浮遊したような軽い笑顔で、わたしを抱き寄せる。

ひとつひとつボタンを外されると、わたしという人格が少しずつバラバラにされていくように感じる。

しかし不快ではない。あちこちを吸われ、快楽が訪れてきてもバラバラに崩れていく感覚は収まらない。

このまま消えてしまってもかまわない。そう思う。身体が一体になるのとは裏腹に、孤独感はいっそうに強まる。

 

武彦は国分寺駅の細い路地にあるスポーツバーで働いていた。

わたしはスポーツに興味などなかったが、友人に誘われて会社帰りに寄ったのだった。

大きなモニターではサッカー中継が流されていた。

青いユニフォームを着た客が多く見られる。ナショナルチームの試合だといういことはわたしにも分かった。

そのときも彼は浮ついた笑顔を絶やさず、「カクテルはねえ、とても綺麗な色をしているでしょう」

そんな風に話しかけてきた。

「でもねえ、綺麗な見た目だけどあっという間に酩酊しちゃうからねえ」と言った。

「綺麗なバラには棘ってこつ?」と話に乗ったのは友人の方だった。

「そうそう。だからカクテルを勧めてくるような男は危険だねえ」などと言って、「はい。これお勧めのカクテルね」と笑った。

友人は「変な人」と呆れて笑ったが、わたしはこういうふらふらしたタイプの男は苦手だった。

あれは三度目にバーへ寄ったときだろうか。友人よりも先に到着したわたしに、武彦はカクテルを差し出した。

「これはねえ、ブルームーン

「綺麗ですね」

「出来ない相談って意味があるんだよねえ」

それがなんなのかわからなかった。どうにもつかみどころのない人だなと、つまり理解しようとしなければなかなか面白い人だなと、そう感じた。

「ちょっと殻に閉じこもりすぎかな。あなたは」

唐突にそう言われ、「そうですかね」とつい語気を強めた。言われる筋合いはないが、でも正論だ。

「髪をね、もう少しショートにして溌剌としたメイクにすると映えると思うなあ」

余計なお世話だが、その口調で言われると、あながち外れでもない気もした。

「ずいぶん女性に詳しいようで」

「そうなんだなあ。詳しいんだよね、実際」

「バカみたい」

「バカというよりはね、軽薄って感じかなあ」そう笑った。

いつのまにか外で武彦と会うようになった。毎回目的がなくて、行き当たりばったりに映画を見たり公園を歩いたり、ひたすら飲んだり、そしてふらりとホテルに入ったりした。

「だって予定なんてないほうがいいじゃない」

「そう? 有意義に時間を使えると思うけど」

「だってさあ、予定決めちゃったらそこまで生きなきゃいけないでしょう」

「いいじゃない。生きるのは」

「面倒でしょう。生きることを第一目標にしちゃったらさあ」

よくわからない人だと、改めて思う。

わたしの部屋に転げ込んできて三ヶ月が経った。

リュックサックとダンボールひと箱だけが武彦の荷物すべてであった。

ふらりとやってきて、泊まらせてもらいたいなあ。というからもちろん了承した。

「できれば長く泊まりたいんだよねえ」

彼は今日も朝早く起きて、ベランダのシクラメンに水をやっている。

花が好きなのか、そう聞いたことがあった。

「赤が嫉妬で白が清純なんだってねえ。花言葉

「で?」

「嫉妬と清純が共存して咲いているなんてさあ、なんだか人間みたいじゃない」

そう言って、武彦はふわりと笑ったのだった。

朝日に照らされる彼の背中が見える。光の加減で、彼が消えたように見えた。

どきりとしてわたしは布団から出て行くと、彼はわたしのこころを見透かしたように、笑う。