卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

空飛ぶオランダ人

空飛ぶオランダ人

公園でお弁当を食べていると、するすると大柄な男が近づいてきた。

よく見ると、彼の靴は地面の少し上にあって、つまり浮遊しているのだと分かった。

箸をとめたまま、どう行動すべきか考えた。警戒して逃げるべきか、それとも浮遊の原理くらいはつきとめるべきか。

悩んでいるうちに男はすぐ目の前まで来て、「こんにちは」と綺麗な日本語を喋った。

金髪のヨーロッパ人であることはすぐに分かった。流暢な日本語を口にしたが、日本に来て長いのかもしれない。

「こんにちは」わたしも失礼のないよう、丁寧に挨拶を返した。

「美味しそうな玉子焼きですね」

「あ」と、お弁当箱を見る。先日買ったばかりの玉子焼き用フライパンで作ったものだ。新しいフライパンだからくるくると、面白いように玉子を巻けたのだ。

「よかったら、どうぞ」

「ありがとうございます」と礼儀正しくお辞儀をして、彼は玉子焼きをつまんだ。

「とても美味しい」

「ありがとうございます。それより……」

それよりもどうやって宙に浮いているのかが気になるのだ。

わたしの視線だけで意図を悟ったらしく、「飛べるんです」と言った。

「すごい」

「でもね、これ以上高くは無理です。それに飛ぶにも結構力が必要で、歩いているのと疲れ方は一緒です」

するとあまり意味がないのかな、そう思い返した。彼はいま一度礼を言うと、公園の噴水をすり抜けて、池の上を飛んでいった。

水の上を飛べるのは、やや魅力的ではあった。


翌日もその公園でお弁当を食べていると、空飛ぶ異国人はやってきた。

笑顔で手を振ってくるので、周囲の視線が少し気になったが、手を振り替かえした。

男はオランダ人で、ヨハンと名乗った。オランダ人の知人などいなかったので、興味が沸いた。

「どんなところから来たんですか?」

わたしは玉子焼きの入ったお弁当箱を差し出して、尋ねた。

「ヘームステーデという街です。こちらに来たのは八年前です」

ヨハンは目を細めて玉子焼きを食べ、続ける。

「そして飛べるようになってしまってから、オランダには帰れません」

「え? そうなの?」

「電車も飛行機も、浮いた状態では、ほら、乗れないじゃないですか」

想像してみた。吊り革につかまっても、電車の車両だけが移動するから……そうか、なんとなく乗れない理由がわかった。

「じゃあ帰りたいのに帰れない?」

「まあそうですが、日本も良いところです。住めば都ですよ」

ヨハンは少し淋しそうに笑った。

翌日は多めに玉子焼きを焼いていった。やはりくるくると綺麗に巻けた。

間にプロセスチーズを入れてみた。なんとなくオランダ人はチーズが好きなように思ったからだ。

ヨハンは公園の池の上を滑るように飛んで、手を振ってきた。

小さな女の子が「外人さん飛んでる」と嬉しそうに指差した。

ヨハンはサービス旺盛で、少女に手を振ると、水の上でくるりと回って見せてからこちらに来た。

「妻と娘が、ちょうどさっきの子くらいの娘がオランダにいます」

ヨハンは玉子焼きを食べながら言った。「チーズ、合いますね」

「それでは淋しいですね。呼んだらいかがです? 日本に」

「何度も誘っているのですが、うまくいきません。オランダの地図では日本は一番端っこにあります。だからか妻も警戒してしまって」

もうひとつ玉子焼きを勧めると、彼は合掌するように大げさに礼を言った。

「海を、飛んで越えていけないのでしょうか?」

「海を?」

「ええ。長いけれど、いつかは着けるでしょう?」

ヨハンは右上のどこか宙を見て、考えているようだった。海を渡る自身を想像しているようだった。

翌日から空飛ぶオランダ人は公園に姿を見せなくなった。

わたしは海を渡るオランダ人の姿を想像しながら、今朝も玉子焼きを巻いている。