卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

料理に目覚めるということ

 煙草を吸いながら月を見上げて、今日も呑んだなあと、ふらついた足で帰宅した真っ暗な玄関先で、わたしはなにをやっているのだろうと思った。
 煙草を吸いながらお酒を飲んで帰宅しただけなのに、妙に虚しくなった。
 こうやって、明日も明後日も、十年後すら変わらない人生を送っているのかもしれないと、唐突に焦燥感を覚えたのだ。
 わたしは当時高円寺にマンションを借りていた。
 一階の、狭いマンションだった。
 結婚したてで、布団を敷いてテーブルを出して、夕食を食べてまた布団を敷き、眠る。困るほどではなかったが、なんだろうか、夫婦の距離は近かった。物理的にも精神的にも近かった。
 ただ漠然とした虚しさがあった。
 わたしはこういうことでいいのかと。こうやって生きていることはつまり人生の浪費ではないのかと。消耗。生きているだけ。ただ日々をやり過ごすための毎日。
 わたしは料理を始めた。
 なぜならば、人は食事によってしか生命を維持できないのだから、その根源である食事をきちんと作ることは、つまりわたし自身をきちんと管理し、新しい細胞を生産する手助けをし、そして新しいわたしを作りあげることそのものになるのではないかと思ったのだ。
 専門の調理員に男性が多いことは、今ではとてもよく理解できる。
 料理は作業だ。
 反復練習の末、失敗を重ねるほど的確な調理法や配合を学ぶ。まさしく男性が得意とする分野で、女性的な美しい盛り付けや新しいメニューへの取り組みも大事だが、作業という観点からはより男性に向いていると思われる。
 初心者向けの、絵がたくさん入ったポケット版のような小さなレシピ集を買った。
 ワクワクした。
 これからは自分の手であらゆる料理を生み出せると、その喜びでいっぱいだった。
 肉じゃがも、唐揚げも、炊き込みご飯にチンジャオロース、麻婆豆腐やスパゲッティミートソースと、今までお店でしか味わえなかった料理が実に簡単にできることを知った。
 まだヴィーガンなんて言葉すら知らない頃だった。
 ハンバーグで空気を抜く意味、とんかつの衣にはなぜ最初に小麦粉を付け、次に卵なのか。出汁をとる場合に昆布、鰹節、煮立たせていいものといけないもの、なぜなのか、あらゆる疑問を実査の調理で解決できるようになった。
 そしてある日、世界で最も単純な作業だと思っていた、手抜き料理だと思っていた目玉焼きや卵焼き、つまり卵料理の奥深さを知った。
 母が簡単そうに焼いていたもの。
 どう焼こうが美味しいのではないかと思うもの。それが実に奥深いことを知って、わたしは卵を焼くことに目覚めた。
 今も答えにたどり着くことはできない。
 パエリアでも餃子でも、春巻きにメンチカツでも、手の込んだ面倒な料理は作ることができるようになった。
 ただ、卵を制圧することはできてない。
 やはりわたしは、この題名でブログを書き続けていきたいのだ。

今週のお題「私がブログを書く理由」