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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

象しかいない動物園

象しかいない動物園

息子がどうしても動物園に行きたいというものだから、まだ引っ越してきて間もないこの町の地図を広げてみた。

以前住んでいた町には、中規模の動物園があった。

月に一度は息子を連れて通っていたものだ。だから引越しに際して息子が一番悲しんだのは動物園とのお別れだった。

「大丈夫よ。次のおうちの近くにもきっとあるから」

何の根拠もなく放った言葉だった。

だからだろうか、息子は黙ったまま不安そうな顔をしていた。

ざっと地図を眺めてみても、大きな緑色で覆われた場所が見つからない。

小さな緑は公園ばかりで、もっと大きな緑はないものだろうかと目をこらした。

最悪の場合は以前住んでいた町まで出かけても良い。

時計を見る。

その場合は一時間以上かかるから、往復の移動時間を考えると長居はできないかもしれない。

息子のお気に入りはキリンやカバや象、チーターにライオンにシマウマ。中型から大型の動物が大好きだ。

パンダやコアラも気になるのだろうが、どちらも前の動物園にはいなかった。

「あったよ!」

息子が耳元で声を上げた。

ほうとう? あら。ほんとうね」

息子の指差す一点には、公園なら大きいが、動物園にしては少し小さいくらいの緑色があった。

早速わたしたちはゆりの木坂動物園へ行った。

バスに揺られている間、息子は「カバさんいるかなあ」「キリンさんは?」と尋ねてくる。

「いるわよ。だって動物園だもの」

まだ小学校に上がる前の息子は、目を輝かせて何度も同じ事を聞いてくる。

可愛いものだと思った。

いつまでこうして母親と行く動物園を楽しみにしてくれるのだろうか。

なぜかそんな淋しさに襲われたりもする。

ゆりの木坂動物園は大通りに面していて、猿やゾウが笑っている絵が描かれたエントランスがあり、その脇にチケット売場があった。

思ったよりも古びておらず、清掃員が忙しそうに掃き掃除をしていた。

料金は四百円。子どもは二百円。良心的な価格だと思った。

これから何度もくることになるだろう動物園に、わたしまで胸が躍ってくるのだった。

土曜日にも関わらず、エントランスを抜けた広場にはほとんど人気がなかった。

悪い予感がする。

低料金なのにまばらな客しかいない。さほど広くもないようだし、人気のある動物すらいないのかもしれない。

わたしのほうが息子に手をひかれるようにして、「ほらほら行くよ!」と威勢よく歩かされた。

チケットの半券を見て、目を疑った。

「当動物園はゾウしかいない動物園です」

ゾウしかいない? 

かつて象のいない動物園というお話があった。

戦時中の日本で、脱走したら危険だという理由で殺処分されてしまった象たち。

最後、空腹に耐えかねた象が、芸をやってみせて餌を欲しがる描写は今でも覚えている。涙が止まらなかった。

人間のエゴで集められ、殺される象。でも最後まで人間を信じて芸をする象。

だがここはそんなゾウしかいない動物園らしい……。

息子が満足してくれれば良いのだが。

最初に訪れた一画には「カバ」と書かれていた。

「なんだ。いるじゃない」とわたしは呟く。

「え、なになに?」

「ううん。なんでもない。カバさんいないかと思ってた」

カバはいた。初めは気がつかなかった。じっと、水辺で口を開けているカバ。

確かにいるのだが、近づいてみると、それは精巧にできた像だった。

「カバさん動かないね」

「そうね。寝ちゃってるのかなあ」

空々しいとは思いつつも、そう答える。

ライオンも猿も鷲もキリンもゾウもシマウマもタイガーもパンダさえもいた。

ただしどの動物も動くことない像であった。

さすがに息子も不審に思ったらしく、「ニセモノかあ」と言い出すようになった。

「そうねえ。でもとってもよくできてるよね。今にも動き出しそう」

「うん。全部いっぺんに動いたら面白いだろうなあ」

ライオンは両手を挙げて、まるで獲物に襲い掛かるかのような躍動感がある。

キリンは高い木を見上げて、草を食もうとしている。

鷲は大きな翼を広げて旋回している途中だ。

時間の止まった像しかいない動物園。

いつか動き出したら楽しいなだろうにと、息子に同感だった。