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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

鬼の帰る場所

安産祈願で有名な近所の神社を毎日通り抜ける。

別に毎日安産を祈願しているわけでもないし、そもそも僕は男だ。しかもひとり暮らし。

単に駅へ行くにはその神社を突っ切った方が近道になるというだけだ。

なのでほぼ毎日その神社を通っておきながら、一度もお賽銭すらしたことがない。

その日家に帰ると、閉めようとしたドアの隙間から小さな赤い物体が滑り込んできた。

ひい、と思わず声が漏れた。

上がり框にちょこんと腰掛けてこちらを見上げているのは、なんだろう、赤くて黄色い角がある。

鬼か?。

目がくりくりしていて愛らしい顔をしていた。なにより二頭身から三頭身くらいの体型で、いくら鬼でもぬいぐるみのようである。

「鬼?」僕は笑いながら問いかけた。

「そうだ。鬼だ」

意外に横柄な態度で、鬼は答えた。

いや、鬼なのだから人間ごときにへりくだるわけがないか。妙に納得してしまった。

「あの、鬼さん?」

「なんだ」

「どうしてここへ?」

「ふん。貴様は毎日境内を通り抜けてるだろう。一度も俺に挨拶もなく」

 それはそうだ。しかし神社の宮司や神社の関係者から小言を言われるならともかく、なぜ鬼に。

「あのう、鬼さん」

「なんだ」

「鬼さんはあの神社に?」

「当たり前だろう。安産祈願なのだから」

「え、安産祈願の神様が鬼さん?」

「神様ではない。鬼だ。何度言ったらわかる」

意味不明だったが、鬼の主張では安産祈願として祭られているのはこの小さな鬼だったらしい。

遠目からでじっくりとは見ていないが、たしか仏像があったようにも思えたが、黙っていることにした。

「おい」

鬼はいつの間にかソファに座って、というか乗っかっていた。

「おい。人間」

「ああ、はい。なんでしょう」

「何か供え物はないのか」

「食事?」

「そうとも言う」

鬼の嗜好は皆目分からなかったが、なんとなく和食かと思い、白米に味噌汁と鯖の塩焼きを用意した。それから実家から送られた白菜の漬物。

「うまい!」

鬼は白菜をぱりぱりと咀嚼して言い放った。

「よかった。お口にあったみたいで」

「普段は和食を食べんからな。たまに食べるとほっとするぞ」

それこそ普段は何を食べているのか気になったが、敢えて聞かなかった。万が一にだが、「人間だ」などと鬼らしいことを言い出したら厄介だからだ。

「これはうまい。おまえが漬けたのか」

「いえ。白菜は実家の母が」

「なるほどな。ご両親は大事にするのだぞ」

鬼はまともなことを言って、味噌汁、鯖、アジ、漬物の順に口をつけていった。

ぺろりと平らげると、次は風呂だった。

特に教えなくても追炊きをしていたし、問題なくシャワーも使っている音が聞こえた。

案外鬼も現代的な生活を送っているようだ。

風呂上りの鬼は九時過ぎになるとうとうとし始めた。まるで幼児ではないか。

布団を敷いてやるとすぐに横になって、寝息を立て始めた。やはりこうしてみるとなかなか愛らしい。

翌日になって僕は思い至った。会社へ行かなくてはならない。

「行って来ればよいだろう」

鬼は事もなさげにそう言った。

「あの、鬼さんは」

「ここにおる」

「一日中?」

「鍵を置いてゆけ。飽きたら近所を見回ってくる」

合鍵を置いて、僕は家を出た。いつまでここにいる気なのか問いたかったが、すでに遅刻ぎりぎりの時間だ。

常に鬼のことをが気がかりだったが、通常に仕事をこなして帰路に着いた。途中、神社を抜けるときに初めて安産祈願ののぼりのある方へ近づいた。

賽銭箱の奥に二メートルほどの仏像がはっきりと見えた。

やっぱり仏様はちゃんといるじゃん。

ちゃりんと五円を賽銭箱に投入し、なんとなく手を合わせてみた。

ほんの数秒目を瞑っている間に、このことは鬼に伝えない方が良いような直感が芽生えた。

家に帰ると、鬼は床に雑巾掛けを行っていた。

小さな赤い塊が右に左に、せわしなく動いている。

「あ、すみません。掃除なんてしてもらって」

「気にするな。それよりも帰宅したらきちんと挨拶をするのが常識だ」

「すみません。ただいま戻りました」

「うむ。お帰り。挨拶は人間関係の基本なり」

人間ではない鬼に言われるのも不思議だが、正論ではある。

その晩は肉豆腐にほうれん草のお浸し、アサリと三つ葉のお吸い物に白菜の漬物、キノコの炊き込みご飯を用意した。

「見事だな。すべてうまい」

「ありがとうございます」

「ひとり暮らしでいつもこんなに手料理をしているのか」

「はあ。趣味みたいなもので」

「早く結婚をしろ。あまり家事が得意になると婚期が遠のくぞ」

「相手がねえ。いないもので」

「任せておけ」

何を任せるのか不明だった。安産祈願から来たという鬼に男女の出会いに関する力を持ち合わせているのか分からない。

その日も九時過ぎに鬼は布団に入った。

そして言った。

「世話になったな」

「あれ、もう帰られるんですか?」

「うむ。賽銭もしない不届きものだと思ったが、案外堅実な人間だ。許すことにする」

食べられなくて済んだかあ。そんな冗談を言おうとしてやめた。でも、鬼さん。どこに帰るというのだろう。

翌日、目が覚めるとすでに鬼はいなかった。

狭い部屋だが、静けさに満ちた部屋が少しだけ淋しさを増した。

少し早めに家を出て、またお祈りに立ち寄った。

五円玉を投入して勢いよくパチリ。

目を開けても仏像が一体あるだけで、やはり鬼はいない。

境内を一周してみたが、やはり鬼は祭られていない。

諦めて駅へ向かおうと出口へ歩いていくと、そこで前から来る女性が笑いかけてきた。

「おはようございます」明るい口調でそう言ってみた。鬼もまずは挨拶だろうと言っていたから。

「おはようございます。いつもここを通ってらっしゃいますね」

女性はそう言って快活に笑った。とても、美しく笑った。

鬼さん。やってくれるじゃないか。

明日から毎日賽銭は欠かさないようにしてみよう。そう思った。