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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

キッチン猫

追憶の展覧会

 猫のような愛嬌のある顔をした猫山さんの経営するレストランは、キッチン猫だ。住宅街の中にひっそりとあって、夜になると煌々と明かりが漏れるのだ。わたしのアパートの住人も含め、客の大半が近所に住んでいる住人である。だからこの町内だけは妙に顔見知りが多く、会話が絶えない。
 店内は淡い光が満ちていて、年代ものと思われる木のテーブルや、主張しすぎない絵画を照らしている。可愛らしい手書きのメニューボードには、オムライスやスパゲッティミートソース。それからハンバーグにトルコライスといった懐かしい洋食が書き込まれている。
 わたしは会社帰りに立ち寄ることが多い。人に溢れた都心から、これまた人に溢れた電車に揺られてこの町に帰って来る。ぼんやりとキッチン猫の明かりが見えると、ようやく帰って来たのだと実感でき、張り詰めた神経がふわりと緩む。
 猫山さんは長身の女性で、やはり猫のようにすらりとした体躯である。

扉につけられた鈴がチラリと鳴ると、静謐な動きで猫山さんが「いらっしゃい」と迎えてくれる。

夜の町は静けさに満ちているが、店内は小さく流れるピアノソナタが優しい。

これはストラヴィンスキーだったかな、コートを脱ぎながらそう考える。

「お水、お持ちしますね」

猫山さんはコートを受け取ると、滑らかにハンガーにかけてくれる。

「ありがとう」

わたしは腰を落ち着けて、店内の見知った顔に会釈する。

二組の客がいて、あちらは飯山さん夫妻であちらは大学生の久保くん、そう心の中でひとりごちる。

わたしの好きなのはハンバーグだった。

まん丸の、ちょっと太っちょなハンバーグに半分だけかかったソース。ジャガイモが白く隅にいて、その横ににんじんのグラッセが艶やかに鎮座する。

小鉢には緑野菜のサラダと、コンソメスープがゆらゆらと湯気を上げている。

「そういえば」猫山さんは長い指でフォークとナイフをセットする。それらの銀に白熱灯が柔らかい光を落とす。「結婚記念日なんですって、飯山さん」

「ああ」

わたしは飯山さん夫妻の、囁くように会話を交わしている姿を見やった。奥さんが初々しい笑顔で、贈り物らしき包みを開けている。

「奥さん嬉しそう。贈り物はなんでしょうね」とわたしは言う。

「そうねえ。時計かしらねえ」と猫山さんは嬉しそうに言う。

「時計?」

「最近していないから、壊れちゃったのかなって」

「よく見ていますね」

「でしょう」猫山さんはそう言うと、くるりと回って厨房へと消えた。

わたしはテーブルに並べられたハンバーグと、サラダとスープと、更に今日だけ見慣れないグラスがあるのを見つけた。

小さな泡がふつふつと上っている。口に含むと、程よい炭酸の中に穏やかな葡萄の香りが広がった。

わたしの誕生日も、ちゃんと覚えてくれている。そういう人なのだ、猫山さんは。

 


猫のような愛嬌のある顔をした猫山さんの経営するレストランはキッチン猫だ。

ひとり暮らしの僕は、結構な頻度でこの店を訪れる。

街灯がぼんやりと浮かび上がっている中、ひときわ明るい店が住宅街の中にある。
ひっそりと、誰からも見つからないように、隠れているかのようにそこにある。

扉につけられた鈴がチラリと鳴ると、美しい姿勢で「いらっしゃい」と猫山さんが声をかけてくれる。

店内にはOLの高木さんとフットサルに打ち込んでいる板垣さんと、屋根職人のごんさんがいた。

高木さんは好物のハンバーグを無心に食べている。直接聞いたわけではないが、見かけるたびに彼女はハンバーグを食べている。

僕は窓際の席に座って、ゆっくりと本を読むのが好きだ。

心地よい音量でピアノソナタが流れ、猫山さんが音もなく来たかと思うと素早くコーヒーを置いてくれる。

僕の好きなマンデリンのコーヒーに小さなポットに入ったミルク。僕はひと口カップに口をつけて、香りを楽しむ。

「勉強はいかが?」
 猫山さんの柔らかい笑顔が、淡い白熱灯に浮かび上がる。
「どうでしょう。たぶんこのお店でコーヒーを堪能していることがすべてを物語っていると思います」
 ふふふ、と猫山さんは上品に笑う。こんな僕のひねりのない切り口にも、まんざらでもなさそうな笑顔が、僕は好きだ。
「わたしも、太古の昔だけれども」
「太古の?」
「ええ。勉強する意味って分からなかったのよ」
 悪戯っぽく猫山さんは笑う。
 例えば突然出されたワインの味を問われても、僕にそれを表現する舌はないと思う。そんな蠱惑的なワインが、まさしく彼女だ。口当たりが飲みやすいことを装って、実はその深みが不可解という、そんな女性なのだ。
 いったん厨房に猫山さんは消えた。
 飯山さんの奥さんが小さな包みを開けて、頬を赤らめるのが見えた。あまりに嬉しそうな笑みに、僕もついつい頬をほころばせる。その奥では、高木さんが美しく背の高いシャンパングラスに見入っているのが窺える。
 なんだか、今日はこの店全体が祝祭ムードにあふれている。僕はややぬるくなったコーヒーに口をつけて、故郷の親を思い起こす。
「あなたは希望なのよ」
 母の焦燥感に駆られた声を思い起こす。母は五日市という田舎に嫁いで、案の定外様としての冷遇を受けた。幾年たっても母は「外」からやってきた人間であり、信頼するに足らない人間だった。
「あんたがいなきゃとっくに出とっとるわ。さいてーな田舎の村や」
 そんな母が先日の電話越しで泣いていた。
「泣くなって。わかったから。あのさ」
「なあに」
「おれが誰も文句言えないくらいの一流大学入ってやるよ。とんでもないくらい一流の」
 苦笑した。どんな良い大学に入ったところでそれがなんなのだろう。しかしあの田舎では、もしかしたらある種のステータス、少なくとも母が見下されることはないのではないか。ここのところ僕はそう考えていた。
 しかし勉強する意欲は失せていくばかりだ。
 シャンパンを傾ける高木さんは、瞳に涙をためている。なぜだろう。なぜそんなに幸せをかみしめているのだろう。飯山夫妻は身を寄せ合うようにして、店を出て行った。
 僕もすっかり冷めたコーヒーを残して、帰ることに決めた。少しでも勉強をしようと決意を新たにした。
「また来て頂戴ね」
 猫山さんは細い体を綺麗に折りたたんで、お辞儀をした。丁寧な、仕草だった。
「はい。明日も来ちゃうかも」
「そう言うと思ったのよ。はいどうぞ」
 彼女が渡してくれたのは、お守りだった。
「お守り自体はともかく、ほら受験生って時間がないでしょう? 代わりにお祈りしに行ってきたからね」
 美しくしかしするりと避けるように笑う猫山さんは、やはりこの店の柔らかな照明に映えていたのだった。