卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

心の旅

 とにかく深く、恋に落ちたのだと老婆は言った。

 ローマから成田への便で、ふとしたことから会話が始まって、いつの間にか隣席の老婆の、若いころの恋愛話を聞くことになってしまった。

 わたしは長くつきあった女性と別れ、そのことを遠因として単身でイタリアを旅して、だからだろうか、わたしの話の節々に孤独感や失恋の痕跡があったのか、老婆はすらすらと「深く、とにかく深く恋に落ちたのよ」という発言を引き出した。

「週末を待ちわびてね、それはもう唯一の楽しみといっていいくらい」

「唯一?」

「そう。町工場で働いて、それもたいしたお給料にはならないし、なにより実家が貧しくてね、お給料のほとんどは親に渡していたから、だから生きている実感はあるのだけれど、楽しみなんて、未来なんてものはなかなか見られなくて」

「でもその男性と会うことが未来になったわけですね」

「そうよ。それだけのために生き抜いたのかもしれないの。母親が痴呆、ええと今は認知症っていうのよね、それになって、夜中でも起こされるの。トイレに行きたいだとか、まあそう言ってくれればまだましで、わからなくて漏らしてしまったり冷蔵庫を開けてそこで、あら、ごめんなさいこんな話」

「いえ。大変な時代だったんだなって、いや、今も昔も大変なことはきちんとあるのかもしれませんが」

「そうよ。いつの時代も皆大変なのよ。それがこのごろ実感としてわかるの。年寄が偉いわけじゃないのよ。若い人も子どもも、それぞれが苦労をし続けているんだから、皆偉いのよ」

 ジャンボジェットのエンジン音を数時間聞き続けて、わたしは人の声が恋しくなっていた。二回ウイスキーをお代わりして、三度目は気が引けると考えていた時に、不意に老婆が「おひとりでご旅行ですか?」と尋ねてきたのだ。

 普段なら適当にあしらってしまうような会話だが、わたしは人の声に飢えていた、いや、人の温かみや優しさ、ふれあいといった人間としか分かり合えないものに飢えていた。

 どれほど美しい街並みや遺跡や海、豪勢な食事にも宿っていない、根源的な存在理由を人間と確認しあいたかったともいえる。

「週末はさぞ楽しかったでしょうね」

「ええ。最初はぎこちなく喫茶店だとか、レストランだとか、そういうところで話をするのだけれど、すぐに途切れてしまってね。沈黙は決して不快なものじゃなかったのよ。どちらかといえばわたしたちだけが包み込まれているような安心感もあって、その空気をとても気に入っていたの。でも彼は額に汗まで浮かべてね、話のきっかけを探っていたわ」

「わかる気がします。わたしも口下手ですから」

「ふふ。男の人はおしなべてそうなのかもしれないわね」

「女性の心というのがわかりません。口とは裏腹に考えていることが違いすぎて」

 それは別れた彼女のことでもあった。

「わからないから、男女は惹かれあうのかもしれないわね」

「多くの場合は苦しいばかりですけど」

「そんなこと言わないの。幸福は必ずつかみ取れるから」

「つかめたのですか?」

 わたしは酔っていたのだろうか。普段よりも積極的に、人に対して深く質問をしていた。

「結果的に、人生における幸福は達成できたわよ。とても小さな小さな幸せね。妻となって子を成して、それなりに育て上げて自立していき、そしてわたしはひとりになった。どの時点が幸福なのかはわからないけれど、確実に、どこかにあったのよ。それだけは今となってわかるの」

「今となって?」

「ええ。たぶん今はもう幸せとはいえないからなのね。失って初めて幸せの最中に自分がいたことを知るのよね」

「そんなことは、そんな淋しいことは言わないでください」

 わたしはいつの間にか頼んだ、ウイスキーを飲み込んだ。低気圧の畿内では、アルコールが体中を駆け巡るように浸透していく。

「映画を観たり、ダンスクラブに行ったり、バーにも行って、踊りもお酒も知らなかったわたしは、彼と一緒にいろいろなことを体験していったの。男性と旅行したのも初めてで、福井県鯖江ってご存知?」

「聞いたことはあります。眼鏡の生産が盛んだって」

「そうそう。そこへ行くときにはもう何日も前から緊張してしまって、いえ、緊張というよりも高揚していたのね。浮かれてしまって仕事も介護もすべてが旅行への準備作業に感じられてね、東京オリンピックなんてかすんでしまうくらいに素敵な未来があったの」

東京オリンピックですか。わたしたちでいうところではサッカーのワールドカップに初出場したときの感激に似ているんでしょうかね」

「あら、わたしもサッカー大好きなのよ」

「本当ですか。あの時は感動しましたね」

「そうね。心臓が止まるかと思ったわよ。もう拍動がばくばく聞こえてきて。あら、そう考えてみるとあのときの旅行よりもワールドカップのほうが浮き浮きしていたようにも思うわね。なんだか勝手なものね、人って。どんどん記憶を改竄するし、塗りかえた記憶にすがったりもする」

「そんなものかもしれませんよ。わたしだってその場その場で気分はころころと、例えばこれ以上最低な出来事はないなんて定義づけしますけど、実際はもっと酷いことは幾度も起きますから」

「経験値の差なのかしらね」

「だと思います」

 航空機は乱気流に突入したのか、がたがたと、嫌な予感を呼び起こす揺れ方をしていた。しかし乗客の誰もが平然としていて、飛行機への信頼なのか、今この瞬間にどう足掻こうが事態は好転しないことを知っているのか、わからなかった。

「その男性とは、その、どうなったのですか」

 おそらく結ばれなかったのだと、だから過去の思い出話のように滔々と語るのだろうと、わたしは想像していた。

「さっきね、お別れしてきたところよ」

「え」

「遺言だったの。位牌をどこか綺麗な海に撒いてほしいって。行ったことのない場所。笑顔の絶えない人々がいて、満腹になる豪華な食事があって、光が燦々と降り注ぐ地、そういう場所に撒いてほしいって」

「そうだったんですか」

「だからシチリア島まで行ってきたのよ。こんな世間知らずのお婆さんでもね、気合を入れて腰を据えればね、言葉の通じない異国に行ってもなんとかなるんだって、初めて知ったわよ」

「すごいことです」

「もっと早くに知っていればね、色々なことが実現できたでしょうにね」

 畿内の揺れが収まって、かすかにキャビンアテンダントの表情が緩んだようにも見えた。

「あの人とお別れするときにね、わたしは本当に深く恋をしていたのだと、初めて知ったの」

「初めて? ですか」

「ええ。長い時間でしたけど、彼の言葉遣いや仕草がね、そのひとつひとつがとても大切だったことに気づいて。彼がかけてくれた言葉たちを、彼のオムライスの食べかた、歩く速度やわたしの服装を見ている表情や、本を読んだ感想、すべてにおいて、わたしは彼の痕跡を頂き続けていた。そういう人生だったのに、そのことを気づかないまま、もう彼のことはわたしの頭の中にしかないのに、彼の生きた証はわたしの」

 そこで老婆は苦しそうに言葉を切った。

 わたしもかけるべき言葉を探せずに、ふたりで地球と宇宙の狭間に立ち往生している様となった。

「まだ若いのだから、なんて言わないわよ」

「え?」

「今、きちんと周囲を確認してね。そして大切なものを取りこぼさないように、そして幸せをちゃんと実感して、悲観的にならずに」

 老婆はそう言って笑うと、そのまま目を閉じてしまった。眠るのか眠ろうと無理しているのかはわからなかったが、わたしの頭の中は、酔っていたはずの靄のかかった心は突風でも吹いたように、明るくなった。

 見たことのないシチリアの海に、この小さな老婆が遺灰を巻く姿が、燦然と降り注ぐ太陽のもとで、さらに輝きを放った彼女が脳裏に浮かぶのだった。

 

 

 

お題「行ってみたい国」