卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

わたしたちの王国

ふたりだけの世界だった。僕と彼女の、男と女だけの世界だった。

 つまり、と僕は考える。つまりこの世界で求められていることは、僕と彼女の間に子を宿し、我々の遺伝子を後世に残すことなのだと。

「外の世界が見てみたい。だって」

 ある朝彼女はそう切り出した。

「だって外の世界にはもっと多様な生命体がいるはずだもの」

「そうとは限らないよ。危険で劣悪な環境が待っているに決まってる。だってさ、ここよりも良い場所があるのなら、とっくにその地からここへ偵察にやってくる生き物がいるはずなんだから」

「この場所自体が違う場所にいる人々から見れば劣悪な、それこそ見に行く価値もない場所なのかもしれないじゃない」

 切れ長の目を鋭角的にして、彼女は言った。不思議なことに、ただひとりの異性しかいないと、その美醜はよくわからないのだった。おそらく美しい女なのだろうが、その確信が持てないのである。

 彼女は翌日の早朝に、この平穏な草原から出ていった。まだ僕が眠っているものと信じて、足音を消して出ていった。

 丸太を積み上げた小屋の窓から、こっそりと彼女の後姿を見つめると、一度だけ彼女は振り向いた。不安そうな表情は、ずいぶんと離れた場所からでもわかった。

 ひとりきりになると、途端にやることがなくなった。いや、やるべき作業は数多くあるのだ。食料の確保や調理だけでも結構な時間が必要だ。

 家畜の世話や、狩猟や釣りに用いる道具の整備に作物畑の手入れに、それからこれは去年から始めたことなのだが、綿畑にも手をかけてやらなければならなかった。

 僕と彼女はずっと裸だった。それが変だとは思わなかったのだが、洋服というものを古い書物で知ってから、それを身にまとうのもいいかもしれないと意見が一致したのだ。

 ひとりでは、意見を戦わせることもできない。

 やるべきことは無数にあるのだが、やる気力を喪失してしまったのだ。

 だから僕は、最低限のことを済ますと、草原で本を読んだ。

 なぜだかその小屋には大量の本が収められていた。地下に伸びる階段があって、その先の大部屋には夥しい数の本があった。

 料理の本も医学の本も文学もそろっていた。航空技術のような科学的な本もあれば、錬金術や無限機関といったまやかしの本もあった。

 草原の中で僕は荒れた海の船乗りとなって冒険をして、身が滅びるほど熱い恋をした気になったり、金目鯛の煮付けという魚料理の手順を覚えた。

 そして思った。ひとりではなにも始まらない。生み出せないのではなくて、始まらないのだ。

 その日、本を読み終えてすっかりと夕日に染まった空を見上げて小屋に帰ろうとすると、足が茶色く変色していることに気がついた。

 地面にしっかりと根付いていて、一歩も歩くことができないことに愕然とし、ただ体を震わせて、もう僕の人としての人生は終わるのだと、そう確信した。

 一週間ほどで、僕は完全な木になった。完全な木というものがどういうものかわからないが、枝葉を広げて、立派な大人が両腕を回しても届かないほど太い幹が地面に直立している。

 心は平穏になった。

 些末なことは気にならずに、ただ風に吹かれて、音楽を奏でるように葉を揺らし、養分を大地から頂いて、実った実を小鳥たちがついばみにくる。

 美味しいかい?

 そう話しかけてみるが、音として発せられていないのか、そもそも言語体系が違うから理解できるはずもないのか、小鳥たちはせわしなく嘴を動かす。

 僕は巨木になった。二年なのか三年なのか、それとももっと長い月日が経ったのかはわからない。

 ある日、彼女が帰ってきた。

 全身の皮膚が緑色で、大きな目に団扇のような手をしていた。楕円形の頭には角まであって、前の姿とはまるで違っていた。

 それでも彼女だとわかった。

「ただいま。どこにいるの?」

 声だけは、あの日の彼女のままだった。

 長い時間彼女は僕を探し、日が暮れるころには諦めたのか涙を流し、そして僕のところへやってきた。

 丈夫な幹に寄りかかって、「いなくなっちゃったか」と泣いた。

 毎日彼女は、僕にもたれて泣いた。

 しかしいろいろなことを話してくれた。外の世界には荒涼とした原野が広がっていることや、黒い雨が降る地帯があったこと。

 見たこともない動物や虫なら嫌というほどいたこと。

 離れてみて、僕のことが大好きだったことに気づいたこと。

 僕は風がないにもかかわらず、力を振り絞って枝を揺らした。

 わさわさと一本だけ揺れる枝を、彼女は不思議そうに見上げていた。

 そこには満天の星空が広がっていた。