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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

さかさまの世界     

「ねえお母さん。お空にお魚さん飛んでるよ」

そう言われて、わたしは失笑しながら空を見上げた。

「お空に飛んでるのは鳥さんでしょう」と言いかけたところで、空を泳ぐように飛ぶ秋刀魚を見たのだった。

「あら、ほんとう。お魚さんいるね」

呆然とつぶやき、そして息子の手を少し強く握った。

群れを作って空を飛んでいるのは鰯だろうか。いつの間に世界は反転してしまったのだろうか。わたしは首をひねる。

青信号にも関わらず車が速度を緩めずに直進してきたので、わたしはさらに力をこめて息子の手を握る。

「青信号は渡っていいよでしょ?」

「そうよねえ。どうしたのかしら」

赤信号になると、車は一斉に止まった。信号機もさかさまになってしまったようだ。

首を傾げながら、そもそも魚は空を飛び、青信号は止まれだったのかもしれないと、そう考えた。

するとわたしはとても疲れているのかもしれない。

見慣れた商店街までやってきて、今日は何を食べたいかと聞く。

「うーん。石田ミートのコロッケ!

息子はこういうときだけはっきりと主張する。

「だめよ。コロッケ食べたいならお家で作ってあげる」

と言ったものの、コロッケを一から作る工程を考えると辟易した。

「ハンバーグじゃだめ?」

「コロッケといたらコロッケ」

交渉しているうちに、石田ミートに到着してしまった。

愛想のいい石田さんの奥さんが手を振ってきたので、では今日はここで買いましょうとなった。

様々な肉が並んでいて、特設コーナーには評判のコロッケがある。

「あれ? 今日はコロッケ売り切れ?」

わたしは石田さんに尋ねる。

「何言ってるの。揚げたてのいっぱいあるじゃない」

と指差されたものは、すりつぶしたジャガイモを丸めて揚げたようなものである。

「衣は?」

「もちろん中に入ってるけど?」

なにやら分らないが、とりあえず五つ、紙袋に入れてもらった。

「ねえねえ。なんだかいつものコロッケと違ったね」

店を出ると息子が不思議そうに言う。

よかった。わたしが変なわけではないらしい。

八百屋には店主の松山さんが立っていて、「高いよー高いよー」と声を張り上げている。

「どうよ奥さん。高くしとくよ? おまけもしないよ?」

「キャベツ、ありますか?」

千切りにしてコロッケの下に敷きつめたいのだ。

「あるある。二百円だけど、奥さん美人だからいいや。三百円」

「いえいえ、いいです二百円で」

「いいって三百円」

無理やり二百円を握らせると、「奥さんは遠慮するなあ」と感心するような声をあげていた。

なんなのだ、世界がさかさまになっている。

ハンバーガーショップを見れば、女子高生たちが肉で挟まれたパンを食べている。

整骨院から出てくる人たちはとても元気そうで、走っている人もいた。

やはりわたしの頭がどうかしてしまったのか。急いで家に帰ると、冷たい水をあおった。

少しだけ気分が落ち着いた。少なくとも家の中は、いつもと変わりない。

息子が楽しみにしているテレビ番組がそろそろ始まる時間だった。

「テレビつけてあげるね」

「うん。ありがとう。お父さん」

わたしはキッチンに立つと、手早くキャベツを千切りにした。

買ってきたコロッケを皿に並べ、その上にキャベツをかけていった。