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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

お母さんデパート  

蝉が鳴き始めた頃に、お母さん専門店へ連れて行ってもらった。

父は朝からそわそわしていて、「嬉しいか? お母さんくるんだぞ?」と幾度も尋ねてきた。嬉しいのは父であって、どちらかといえばわたしは母という存在を購入すること自体、なにかが間違っている気もしていた。

ただわたしの中にある母の像は曖昧で、写真を見れば「この人が優しかった母なのだ」という感慨はあっても、それ以上の思い出は甦ってはこない。

お母さん専門店は駅前に開店して、ちょうど一周年記念セールを行っていた。すれ違うのも困難なくらいに店内は人が多く、当然だが男性客ばかりであった。

ねえお父さん。そう問いかけるが、父はショーウィンドウから視線を外さない。

「ねえお父さん」と半ば叫ぶように、わたしは言った。

「ん?」父はこちらを向いてくれた。額にはうっすらと汗をかいていた。

店内は人々の発する熱のためか、異様に蒸し暑かった。

「なんでお母さんを買うことにしたの?」

「ああ、ほら、もうすぐ小学校でしょう。そろそろお母さんがいないと色々不便かなってね。それにこの店、評判もいいしさ」

「ふうん」

小学校に上がることと母親の必要性はよく分からなかったが、実際父の作るオムライスは卵で包めていないし、カレーですら味が濃かったり薄かったり定まらない。

洗濯はまだしも、掃除は週に一度しかしないものだから、部屋の隅にはいつも埃が溜まっている。

そういうことが解消されるなら、確かに母親の存在は大きいかもしれない。

父と一緒に、ショーウィンドウに納められた母親たちを見て回る。一番人気、というステッカーが貼られているのは、黒木瞳によく似た顔をした母親だ。

百二十万円の値札の横に「オールラウンド系」と書かれている。

背が高くやや骨太の母親は「快活なスポーツ系」とあり、今どき人間でもなかなかいない着物姿の母親は「古典的な清楚系」とある。

父の趣味はどんなものだろうと、そればかりが気になった。

わたしの本当の母は、とても美しい声をしていたように思う。

霧に満ちた森の中から聞こえてくるような、澄んだ声をしていた。だから母の読んでくれる絵本は、どんな物語でも美しさを感じた。

「なあ。このお母さんにしようか」

父が指差しているのは、細身の黒いパンツに淡い黄色のシャツを着た、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「うん。いいと思う」

ケバケバしい化粧をした人や身体のラインを強調させているような人だったらどうしようかとハラハラしたが、この「落ち着いた家庭的万能系」と書かれた女性には好感が沸いた。

混みあっていてなかなか係員は捕まらなかったが、なんとかローンの手続きも済ませて、買い物を終えることができた。

二十分ほど待たされると、店員と並んで母親はやってきた。

「今日からよろしくお願いします」そう言って、新しい母は頭を下げた。

とても可愛らしい笑顔で、わたしは嬉しくなって手を繋いだ。暖かい手をしていた。自然と顔がほころぶ。やはりお母さんは、必要だと実感した。

父も満足げに頷いて、そのまま家族三人でファミリーレストランへ行った。大好きなハンバーグを食べて、お母さんがトイレに行くと、「実はね」と父が教えてくれた。

「実はね、昔好きだった人によく似ているんだよ」

「へー。それであっさり決めたんだ?」

わたしがあきれて見せると、父ははにかんだように頭をかく。

帰りの車では、満腹感と充実感で眠くなってしまった。父と母は笑いあって、いろいろな話に興じている。

後部座席でしばらく眠って、薄目を開けてみるとまだふたりは仲良く話し合っていた。ただ少し話の内容が変わって、わたしは今起きてはいけないと、そう予感した。

「せっかく新しい生活を始めるわけだからさ」

「ええ」

「子どもも新しくしたいよね」

「そうねえ。ほら、二年前にオープンした子ども専門店があるでしょう」

「来週あたり行ってみようか。下取りキャンペーンもやってるだろうし」

わたしは家に着くまで、固く目を瞑っていたのだった。