卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

滲む町

あの人の背中が、あった。

距離にすればたかだか十キロ圏内に住んでいるのだから、こうして出くわすのはちっとも不思議ではない。

やや広い肩と背中と、幾度も触れた浅黒い首筋。以前はスポーツでもしているように短く揃えた髪が、ずいぶん長くなっていた。

それでも、後姿だけで彼だとわかった。

その横顔が見えたときに、背筋に電気が流れるような感覚を覚えた。

彼から笑みがこぼれた途端、彼の横にいる女性に、初めて気がついた。

そしてその女性の連れている女の子を凝視して、わたしは手を引かれていることに気がついた。

無意識に呼吸を止めていたらしく、「なあに」と息子に返すのが苦しかった。

「どうしたの? 早く行こうよ」

息子はわたしを不満そうに見ている。今日は息子の誕生日で、何か好きなおもちゃを買ってあげるという約束だった。

何か、といっても予想はつく。先週発売になった携帯ゲームのソフトに決まっているのだ。

もう一度振り返ってみる。

あの人とその家族は、その三人だけで完結していた。誰も入り込む余地のない、完成した形なのだった。

以前から存在は知っていたが、実際に彼の家族を見た感想は、なんだろう、怒りも悲しみもない、空虚な気分であった。

デパートのワンフロア全体が、子ども用品の専門店ばかりだった。

どうしても頭の中はあの人のことになってしまう。見たところ娘さんは小学校に上がるかどうかといったところか。

今日は入学式用の制服を買いに来たのだろうか。

それともわたしたちのようにおもちゃを買ってやるのだろうか。

買い物のあとはレストランフロアで食事をしていくのだろうか。

わたしはあの人の腕に幾度も抱かれたことを思い出し、急速な喪失感に襲われる。

あの完成形に、わたしはいない。それはつまり、彼の中にもわたしはもはや存在しないのだ。

わたしの失われた世界で、彼は笑って生きている。

もちろんわたしだって、今この瞬間まではそうやって生きていた。

「ねえ、買いたいものってゲームソフトでしょう」

「うん。お父さんと勝負するんだ」

夫は家でくつろいでいるはずだ。人ごみも嫌いだし、車の運転も嫌いだし、そもそも出不精なのだ。

「まったくお父さんはいい歳してゲームばかりね」

「お母さんもやればいいのに」

マリオがどうこうというゲームソフトを、息子は手にしてきた。

緊張感と期待の入り混じった真剣な顔をしていて、それを見るとついつい買ってやりたくなる。

そんなに夢中になれるものがあって、なんだか羨ましいくらいだ。

わたしが夢中になっていたのは、あまり褒められたものではない恋愛だった。

「デパートの屋上に行ってみない?」

「えー早く食べに行こうよ」

「まだ十一時過ぎでしょう。ちょっとだけ。景色が最高なんだから」

思いつきで言ってみた。

ここではないが、あの人とはいつもデパートの屋上に行った。

夕刻の暮れていく街並みを眺めて、街がぼんやりと溶け出していくような淡い情景が、そして常に繋いだままの手の温もりが、好きだった。

あまりに幸せで、よく涙目になることがあった。

すると街は滲んで、とても幸せなのに、今にも涙が零れそうになった。それほどあの人を好きだった。

幸いなことに、このデパートも外に出ることができた。レストラン街のテラスのような場所が開放されていたのだ。

都心のビル群が一望できた。息子も「すげー」などと歓声を上げている。

「すげーじゃなくてすごいでしょう」

「いいじゃんどっちでも」

わたしは住友ビルや都庁舎、それからその奥に見える山々に目を凝らした。

きっとあの頃も似たような景色を見ていたはずなのに、まるで違うものに思えた。

ふと前方に、あの人たちが街を見下ろしているのを見つけた。

心臓が大きく鳴って、逃げ出そうと息子の手を引いた。

「どうしたのお母さん」という声を聞いて、力を緩めた。そう、別に逃げることはない。

あの人はゆっくりとこちらに顔を向けて、小さく頷いたように見えた。

錯覚かもしれないが、口元がゲンキ? と動いたように見えた。

売り場にいたときから、おそらく向こうも気がついていたのだろうな、そう思った。

あの人は目が悪いから、どうせ見えないだろうと思った。

けれど口だけを動かしてみた。ニクタラシイ。

あの人は小さく笑った。その視線を追って、彼の妻がこちらを向いた。

わたしは息子の頭を撫でながら、足早に屋上を後にした。

そしてもう、屋上から景色を見るのはやめようと、そう誓った。