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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

忘れる女


忘れる女

 

2012-06-28 19:08:59NEW !
テーマ:羊の展覧会

 
「この頃は多くなりましてね。ストレス社会ですから」
 穏やかに、医者は言った。白衣を着ていないのは、精神科という特殊な病院であるために、こちらが「患者である」という負い目を感じさせないための配慮だろうか。
「嫌なことが、いつまでも忘れられないんです」
 わたしは素直に、そう言うことができた。
 ここ数年、常に溜め込んできた言葉だ。なぜだろう、こんな簡単な言葉が口にできないなんて。
 友人だって、夫だっているのに、誰にも相談はできなかった。
「楽しかったことはどうですか?」
「もちろん時には思い出します。でもとてもぼんやりとしていて、幸福感は続きません」
 医師は品の良いカーディガンを着ている。表情は少しだけ微笑んでいるようにも、見える。
「嫌なことは常にありますか? あるというのは、心の中にです」
「はい。食事をしていても買い物をしていても、眠るときにも。しかし」
「しかし?」
「様々な嫌なことが渾然と襲ってきて、具体的にこれが一番いやだということは分からないんです」
 目の前に置かれたカップから湯気が上がっている。病院という場所で、飲み物を出されたのは初めての経験だ。
「苦しい状態ですね。当然寝不足になり、食欲も不振になります。多くの場合は鬱状態に陥り、放っておけば統合失調すらありうる」
 そこで医師は笑った。
「心配要りませんよ。この分野はとても進みました」
「進んだ?」
「ええ。かつては薬漬けにするのが治療、そんな時代もありましたが、いやもちろん今でも薬は処方します」
「はい」
「適切に薬を飲んで、普通に生活していただければ必ず完治します」
 医師がそう断言すると、わたしの胸の奥から、なにかが抜けたように感じた。それはとても心地よいものだった。
 渡された薬は一種類だけだった。一日何錠というものではなく、「嫌なことがあったら」その都度飲めばよいと説明を受けた。
「嫌なことがあったら服用してください。水なしで飲める薬です。忘却することができる効果があります」
「つまり嫌なことを即時に忘れてしまうと?」
「そうです。そうすれば嫌なことが増えていくことはありません」
 デパートの地下でパンやチーズを買って、それから家路を急いだ。
 通勤時間帯にあたってしまい、電車も駅も混んでいた。もう長く働いていないわたしには、慣れない通勤電車だった。
 吐き出されるように車両から押出され、わたしは転倒してしまった。
 気味の悪いものを見るように、スーツ姿の男たちは通り過ぎてゆく。着飾った女性たちも、蔑んだような視線を送ってくるだけだ。
 わたしが悲観的だから、そう感じるのだろうか。
 慌ててバッグから、処方されたばかりの薬を取り出し、口に含んだ。
 途端に、この駅の名前が出てこなくなった。
 乗った乗り物が何であったかも分からなくなり、そして、そしてわたしはなぜここでうずくまっているのか。
 夕食は簡単なもので済ませた。漠然と、様々な不安要素が頭の中を支配していたが、薬が手元にあるという安心感は絶大なものがあった。
 夫は仕事で嫌なことがあったのだろう。予感ではあるが、高い的中率でもある。わたしは彼の顔をひと目見ただけで、察知できるのだった。
 急遽キッチンに戻り、マグロと鯛のサクを解凍した。少しくらい贅沢させてあげないと、そう感じた。
 若い社員の態度がなっていないという愚痴はかれこれ一時間も続いていた。
 夫の出した案にあれこれと質問してきて、こうしたらどうか、ここは違うのではないか、そう意見してくるというのだ。
「まったくまだ会社というシステムを分かっていないのに」
「そうねえ。でもいい案もあったのでしょう?」
 「ないな。いや、発想としてはおやっというのもある。しかし非現実だ」
 「非現実?」
「会社の枠組みの中で仕事はするものだ。当然コストもあれば割ける人員にも限度がある。まあおまえに言っても分からんか」
 夫はつまらなそうに刺身を口に運んだ。
「働いてもいないおまえに言ってもな」
 悪気はないのかもしれない。しかしこの言葉は、予想以上にわたしにダメージを与えた。
 このところの情緒不安定もあり、すぐに涙がこぼれそうになって、慌ててトイレに向かった。
 便座に腰かけ、もう一度反芻する。
「働いてもいないおまえ」
 わたしは薬を飲んだ。一日に二錠も良いのだろうか。
 しかし医師は「極端な話ですが、全部飲んだって構いません」と笑っていたではないか。
 急速に頭がクリアになり、嫌悪感は霧散した。
 トイレから出ると、見知らぬ男性が食事をしていた。おや、ここは自宅のはずだ。
 すると彼は、ああ、おそらく夫の同僚だろう。泥棒が堂々と食事をしているはずがない。
「風呂は?」
「はい?」
「だから風呂に入るんだよ。明日も早いし」
 横柄な口調だとは思ったが、夫の同僚、もしかしたら上司かもしれないのだ。
「はい。いつでも準備できてますよ」
 そう笑顔で答えた。
 家の中が静かになって、わたしは洗い物を済ませた。
 遅い入浴を済まそうと、洗面化粧台に立つ。
 もう若くないのだな。
 皺が一本二本と増えたときには、女は四十からが美しいのだと、逆に自信を深めたのもだった。それがどうだろうか。今のわたしはなにひとつ取り柄がないようにも感じる。
 眠る前に一本だけ、缶ビールを飲む。ささやかな、一日の終わりのささやかなパーティーだ。
 もっと自信を持とう。
 わたしは何気なく、薬を飲んだ。
睡眠薬じゃないのにね」そうひとりごちて、眠りについた。
 次の朝、見知らぬ男性を送り出して、きちんと化粧をしようと鏡台に座ると、鏡にはまるで知らない女が映っていた。