卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

追憶の展覧会

伊豆の夜

海が赤や黄や緑に滲んだ。 穏やかな波に光が揺れて、上空で舞うきらびやかな花火とはまた違う、とても深淵で孤独な光たちが、海面に漂っていた。 波というものは風が引き起こすものだったか。 わたしは膝を抱いたまま、テトラポッドに打ち付ける波の音を聞き…

十一時間

自然の作り出すコントラストは、偶発的な奇跡だといえる。 夏子は少し肌寒い風に頬を撫でられながら、影絵のような島と赤と青が入り乱れた空に見入っていた。船はこれから二つの島を経由して、およそ十一時間後に東京に辿り着く。 十一時間分の距離こそが、…

雨が消す駅と僕と。

暴力的な、という表現がぴったりな雨だった。 とめどなく雨粒たちは路面に叩きつけられ、町全体がけぶっている。 雨筋で視界すら狭まってしまった感覚にとらわれる。 小さな駅だ。 僕は外に出ることはあきらめて、構内のベンチに腰掛けた。 自動改札は六つ。…

お茶で会いましょう

『お茶が、好きなんですか?』 その紙切れを見つけたとき、わたしは反射的に周囲を見渡した。静かな市立図書館には、適度な数の人がいた。寂れているわけでもなく、混雑してもいなくて、ゆっくりと本を選ぶには最適な状況だった。 手に取った本は紅茶や日本…

部屋は、閉じている。

すえたような臭いに顔をしかめると、わたしは着ているジャージの裾を鼻元に持ってきた。 洗剤でも汗でもない、落ち着く臭いがした。 ならばと、すえた臭いの正体を確かめるべく、敷きっぱなしの布団でだらしなく腹を出している恵一に近寄った。 まるで浮浪者…

ひとり メール。

母が亡くなって、一年がたとうとしていました。中学生になったばかりの啓太は、まだ十数年しか生きていませんが、これほど辛い一年はなかったと記憶しています。 六畳の和室に、父は座っていました。啓太も隣へ行って、きちんと正座で腰を下ろしました。すっ…

闇鍋

妻との最後の食事は、暗闇の中で始まった。 冗談交じりで、「最後に闇鍋なんてどう?」と僕が提案すると、「いいよ」とあっさり了承したのだ。 闇鍋はわれわれが交際するきっかけにもなった思い出の料理だ。それが最後の食事とは、皮肉なものである。 カーテ…

雨の国

雨がやまない。 三月に入って、最初の一週間くらいはニュース番組も悠長なものだった。 「これだけ振り続けるのは観測以来過去最高となります」 どこか嬉しそうに予報士は言ったものだ。 「どうか沿岸部の方、山沿いにお住まいの方は水難事故や土砂崩れにご…

世界の終わり

「もしもよ。もしも明日世界が滅ぶのなら、どうする?」 ロウソクの柔らかい光の中で、妻が言った。 ここのところ断続的に停電が起こる、今夜もすでに二時間ほど、電気供給が止まっていた。 家中から音が消えて、暗闇に包まれると、不思議と時間感覚がなくな…

動物の町

僕の引っ越してきたこの村には、僕のことを詮索するような人物はいない。 この村には極端に人間は少ない。大多数は動物たちであり、彼らは過去に対する執着心が少ない気がする。 だから僕にとっては、この村は居心地がよい。 真夏日は連日続いていて、僕は朝…

忘却の歌

お題「ひとりの時間の過ごし方」 鏡の前に奇妙な生き物がいる。 化粧をするほどに不可解な獣のようになってしまって、これはきっと年齢のせいなのだと思うことにした。「あなた唐突にそんなこと言っていいんですか」「いいの。別に深い意味はないから」「結…

氷女

特別お題「心温まるマナーの話」by JR西日本 電車の中で悪寒が止まらなくなり、まだ診療時間ならば町医者に寄って行こうと思った。 電車は酷く混み合っていた。通勤電車に揺られているこの時間が、人生で最も無駄な時間であると思う。 悪寒ではなく、背中を…

星々の残像

お題「好きな街」 夫婦で温泉に来るのは、実に四年振りだった。 ひとり息子を妻の実家に面倒を見てもらって、山奥の温泉に来たのだった。 妻は育児に追われ、僕は会社の打ち出した人員削減によって仕事ばかりの日々が続いた。 その歳月を振り返ってみると、…

感情の代償

感情を表に出してはいけない。わたしは毎日心がけている。 先日のことだが、無理難題を吹きかけてくる上司に、つい反抗してしまったのだ。 こんなことばかりできませんと、声を荒らげてしまった。 その夕方に、国民的アニメであるサザエさんの放映中止が決ま…

あの子がいた町

その日は僕らの家で人気者だったペルが帰ってくる日だった。なんで帰ってくるとわかったのかって思うかもしれないけど、数日前から鳴き声がしたんだ。お母さんもお父さんもペルの鳴き声を聞いたし、もちろん僕もワワンを聞いた。ペルが久しぶりにくるんだか…

紙人間

瑞希の得意料理は餃子だった。 餡を手早く包み、ひとつの餃子にヒダが五つ、規則的についていた。 「本当はヒダヒダなんてなくて、ぴたっと閉じちゃうともっと美味しいらしいんだけどね」 「そうなの? そっちの方が楽じゃん」 「見た目が可愛くてね」そう言…

市ノ瀬さんの塔 

市ノ瀬さんが塔を作り始めたと妻が言った。庭いじりが趣味な市ノ瀬さんだから、新しい盆栽かなにかのことかと思った。 「聞いてる?」 「塔でしょ。ふーん」とほとんど聞き流してしまったが、実際にお隣の市ノ瀬さん宅を見て驚いた。高さは三メートルくらい…

プラントランド

今週のお題「植物大好き」 かれこれメールのやり取りは半年も続いていた。テクノロジーが常に進化していくのは人間の進歩でもある。だから頭ごなしに否定するわけではない。しかし文字のやり取りで人間関係を育むというのは、どこか違うのではという部分もあ…

壁男

壁男 近所の公園に、その壁は造られた。 誰も気がつかないうちに、皆が駅前に新しくオープンしたショッピングモールに気を取られている間に、壁はできていた。 わたしは毎朝その公園を訪れる。 昨年から飼い始めたポメラニアンの散歩コースに、その公園が入…

行列

僕の近所の商店街に、行列ができているという話を、妻から聞いた。 「へー、なんの店なの?」と僕は新聞をめくりながら聞いた。 「分からないけど、美味しいラーメン屋さんがオープンするみたいよ」 「ラーメンねえ。行ってみる?」 「遠慮しておく。わたし…

モノクロームの世界

この街に希望はあるのだろうか。わたしは窓辺に立って、街を見下ろす。 赤ワインを立て続けに飲みながら、在庫の確認をする。チーズはとっくに手に入らないから、この頃は乾燥肉でワインをたしなんでいる。 太陽はどこにあるのだろうか。明るくも暗くもない…

国民投票

国民投票 もう何度実施されたか分からない、その結果速報がテレビから流れた。 今回は子どもの名前についてだ。 僕と千恵は男の子であろうと女の子であろうと、名前の候補を一切考えていなかった。 考えるだけ無駄だからだ。 テレビの速報では、「一位 祐樹 …

サポーター

穏やかに進んでいた夕食が突然怒号へと変わったのは、このひと言だった。 「モンターニュ世田谷です」 婚約者の石川さんは素直にそう打ち明けた。 結婚ともなれば隠し通すのは難しい。興信所で調べればすぐに分かってしまうことだから。 そしてこの言葉が父…

捕まりたい男

会社を首になり妻に逃げられ、ギャンブルに溺れたらとんでもない借金を抱えてしまった。 もう死んでしまおう。四十二歳にして、僕の人生は何の価値もない、ゴミのようなものになってしまった。 選んだビルの屋上は、春のさわやかな風が吹いていた。遠くの山…

電気男

電気男は危険な人物だと、そういう人は多かった。 彼は常に放電しているため、子どもたちは近づかないように、と教わった。 絶縁体に覆われた小さな家に、電気男は住んでいる。 わたしは幾度か電気男と話したことがある。 「大変ですね」わたしは挨拶代わり…

美しい人

いつから希望を口にしなくなったのだろう。わたしはオープンカフェのテラス席で、ふと思った。陽射しは柔らかく、緑は吸い込まれそうな美しさで輝いている。子どもを保育園に預けて、久しぶりの休暇をこうやってひとりで楽しんでいる。「お砂糖は?」「結構…

東京箱根間往復大学駅伝競走

九区を走る仲間から受け取ったキュウリを、彼はしっかりと握り締めた。 ここまで百六十キロに及ぶ距離を運ばれてきたキュウリだ。 このキュウリには仲間たちの汗がしみこんでいる。 こころなしか、水分が抜けているように感じる。汗の塩分のせいだろうか。 …

猫の教室

猫の教室 「じゃあ新しいお友達を紹介します」 ころころ太った猫山田先生が、虎鉄に柔らかく腕をさしのべました。 虎鉄、なんて名前だけど、実はとっても恥ずかしがり屋で、どちらかといえば臆病な犬なのです。 恐る恐る顔を上げてみると、きれいな毛並みを…

町の消失

家に、帰れなくなった。 もちらん僕は酔ってなどいないし、若年性の認知症でもないはずだと思っている。 朝は普通に家を出た。最寄の駅まで徒歩十二分。中学校を通過して総合病院の脇を通り、コンビニの先が駅だ。 電車では新聞を読んで途中で眠ってしまい、…

戦争のない世界。

世界から戦争が根絶された。 かつては誰もが願っていて、しかし決してなくならないはずの戦争が完全になくなったのだった。 もう尊い命が戦火で犠牲になることは永久にない。 僕は早朝からグラウンドを走っている。隣のグランドにいる息子に手を振る。 軽い…

風の男

軽薄、だからねえ。僕は。 武彦は歌うようにそんなことを言う。 ちょっと雨が降ってきたみたいだよ。そんな口調で言うのだ。 そんな軽さ。この世に重要なことなどなにもないかのような軽さを、彼はいつも身にまとっている。 だからかもしれない。わたしはど…

近所のブラックホール

二丁目の公園が立ち入り禁止になった。 公園をぐるっと一周するように仰々しく黄色いテープが貼られ、「危険」という文字が連続で書かれていた。 ニュース番組のトップでこの公園が紹介されたのが一昨日のことである。 見慣れた公園がテレビに映っていて、わ…

サッカー用語で、きちんと春の飲み会を説明してみる。

今週のお題「私がブログを書く理由」サッカー用語による飲み会の解説。 フィジカル アルコールへの耐性のことを言う。日本人は弱いとされている。 司令塔 幹事のこと。 ファンタジスタ 話が上手い人である。飲み会のクオリティを決める重要な人物とされる。 …

空飛ぶオランダ人

空飛ぶオランダ人 公園でお弁当を食べていると、するすると大柄な男が近づいてきた。 よく見ると、彼の靴は地面の少し上にあって、つまり浮遊しているのだと分かった。 箸をとめたまま、どう行動すべきか考えた。警戒して逃げるべきか、それとも浮遊の原理く…

象しかいない動物園

象しかいない動物園 息子がどうしても動物園に行きたいというものだから、まだ引っ越してきて間もないこの町の地図を広げてみた。 以前住んでいた町には、中規模の動物園があった。 月に一度は息子を連れて通っていたものだ。だから引越しに際して息子が一番…

鬼の帰る場所

安産祈願で有名な近所の神社を毎日通り抜ける。 別に毎日安産を祈願しているわけでもないし、そもそも僕は男だ。しかもひとり暮らし。 単に駅へ行くにはその神社を突っ切った方が近道になるというだけだ。 なのでほぼ毎日その神社を通っておきながら、一度も…

警告制度

吉田係長は審判の掲げるイエローカードを見て、呆然と立ち尽くしていた。 これで累積三枚目のイエローカードだ。 ルールでは明日の出社は禁止。そして明日は吉田係長のプレゼンが予定されていたのだ。 「あーあ。吉田係長やっちゃったね」わたしは新商品のル…

リサイクル

資源の再利用技術は飛躍的に高まった。 ペットボトルからシャツを作ったり、ベンチや滑り台を作っていた時代もあったが、今やペットボトルから家を建てることが当たり前になっている。 大手プレハブ建築メーカーが開発した新技術は、瞬く間に建築業界を変貌…

キッチン猫

猫のような愛嬌のある顔をした猫山さんの経営するレストランは、キッチン猫だ。住宅街の中にひっそりとあって、夜になると煌々と明かりが漏れるのだ。わたしのアパートの住人も含め、客の大半が近所に住んでいる住人である。だからこの町内だけは妙に顔見知…

わたしは彼を救えなかった

くよくよするんじゃないよと、そうわたしは言った。 言ったけれども、直後に無責任な発言だと思った。 彼は納期を間違って発注をして、四日後に必要な備品がどうあがいても一週間の時間を待たなければ納品されないのだった。 雨が降っていた。 慰めるのでは…

心の旅

とにかく深く、恋に落ちたのだと老婆は言った。 ローマから成田への便で、ふとしたことから会話が始まって、いつの間にか隣席の老婆の、若いころの恋愛話を聞くことになってしまった。 わたしは長くつきあった女性と別れ、そのことを遠因として単身でイタリ…

犬の町

わたしたちの町は、少しだけ賑やかだけれど、平和な場所でした。 お母さんに手を引かれて、ちょうど去年の今頃に引っ越してきたのです。 ビーグル犬は珍しいらしく、町の犬たちは興味深そうにわたしたちを見ていました。 町会長の犬渡さんというボクサー犬が…

わたしたちの王国

ふたりだけの世界だった。僕と彼女の、男と女だけの世界だった。 つまり、と僕は考える。つまりこの世界で求められていることは、僕と彼女の間に子を宿し、我々の遺伝子を後世に残すことなのだと。 「外の世界が見てみたい。だって」 ある朝彼女はそう切り出…

さかさまの世界     

「ねえお母さん。お空にお魚さん飛んでるよ」 そう言われて、わたしは失笑しながら空を見上げた。 「お空に飛んでるのは鳥さんでしょう」と言いかけたところで、空を泳ぐように飛ぶ秋刀魚を見たのだった。 「あら、ほんとう。お魚さんいるね」 呆然とつぶや…

お母さんデパート  

蝉が鳴き始めた頃に、お母さん専門店へ連れて行ってもらった。 父は朝からそわそわしていて、「嬉しいか? お母さんくるんだぞ?」と幾度も尋ねてきた。嬉しいのは父であって、どちらかといえばわたしは母という存在を購入すること自体、なにかが間違ってい…

滲む町

あの人の背中が、あった。 距離にすればたかだか十キロ圏内に住んでいるのだから、こうして出くわすのはちっとも不思議ではない。 やや広い肩と背中と、幾度も触れた浅黒い首筋。以前はスポーツでもしているように短く揃えた髪が、ずいぶん長くなっていた。 …

忘れる女

忘れる女 2012-06-28 19:08:59NEW ! テーマ:羊の展覧会 「この頃は多くなりましてね。ストレス社会ですから」 穏やかに、医者は言った。白衣を着ていないのは、精神科という特殊な病院であるために、こちらが「患者である」という負い目を感じさせないため…