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卵を焼くために、わたしは生きているのだ

今より先に、失望も絶望もない。

得意料理

「得意な料理ってある?」
 
「肉じゃがにあえて肉を入れないという肉じゃないじゃがオンリーみたいな」
 
「特異な料理じゃないんだ。最初からやれやれなのは困るんだ」
 
「得意料理ってさ、肉じゃがだとか煮魚、イカと里芋の煮物とか、そういうのがもてはやされるよね」
 
「まあほら、家庭的な料理じゃない」
 
「少なくとも肉じゃがなんて料理なんて胸を張るほど難しくないからね」
 
「そういうこと言うなよ」
 
「そもそもカレーやシチューなんてのは作業だから。あんなもの工程ふめば子どもでもできる。料理ですらない」
 
「そうかもなんだけど」
 
「ハッシュドビーフ? 具材減る分カレーよりも簡単じゃんかよって」
 
「やめろ! 調理陣営を敵に回すな」
 
「クレアおばさんが気になって仕方ない」
 
「それは同感だ。クレア領域がどんどん広がって、そろそろサンタクロース的な実物を求める声が出てきている気もする」
 
「煮魚だってね、出汁の素なんか入れてると簡単にそれなりの味になるわけよ」
 
「それなり、の味ね」
 
「そうそう。大林素子のような大味」
 
「言うな」
 
「うま味調味料、つまり化学調味料は無難な味になるんだけど、結局後味が一緒なんだよね。だから飽きる。飽きて浮気したり薬に手を出したり」
 
「だからやめろ。高島的な話もいらない」
 
「得意料理がペペロンチーノです、なんて女性がいたらそれこそ賭けだよ」
 
「なるほど。シンプルなだけに難しいということね」
 
「全部言うな」
 
「ごめん」
 
「ペペロンチーノを簡単に美味しくするならオリーブオイルを馬鹿みたいに使うことなんだよ」
 
「ふむ」
 
「でもそれじゃあ健康を害する。するとどう工夫するのか、単純な味付けだけに、塩と唐辛子、隠し味の胡椒の兼ね合いが難しい。いっそのことハーブを使うのも手なんだけど、バジルにせよセージにせよ、もちろんタイムやオレガノを投入してもいいのだけど」
 
「長いな」
 
「パスタ?」
 
「話だよ」
 
「ちょっと熱くなった。でまあ、この人は料理上手なんだって安心できるメニューは、和食だったらブリ大根とかね」
 
「なるほど。下茹での工程とかね、大根に米のとぎ汁とか、細やかな点がね」
 
「冬瓜の煮びたしとか」
 
「ははあ」
 
「繊細な料理ね。逆に極端に難易度の高いものとか」
 
 
「リオかよ。頭の中ハッピーなオリンピックかよ。絶倫かよ」
 
「五輪だよ」
 
「その路線だと、グラタンでなくあえてラザニアとかね」
 
「あー」
 
「ラザニアは少々料理が得意ですってレベルでは作りたくないほど工程が多い」
 
「ミートローフとかね」
 
「あるね。そもそもミートローフの需要がないのに作るっていう根性がすごいよね」
 
「そこまで言うな」
 
「ローストビーフはフライパンでも簡単に作れるから、ここでは却下しておく」
 
「おまえは何様だ」
 
「いかさまだ」
 
「つまらない」
 
「パエリアとかね。そういうのは得意と言われたら警戒したほうがいい」
 
「そうなの? 手の込んだ料理じゃない」
 
「だから違うんだよ。普段作る料理はもっとシンプルでないと。そもそも夕食に一時間待たされるとかね、そういう事態が待っていたら家庭崩壊するから」
 
「手早く、美味しく、凝りすぎずにってことか」
 
「そうそう。もうほんとに奴、とかね」
 
「夏はいいよねえ」
 
「ビールに枝豆、奴、至福だよね」
 
「ビールなら餃子も最強」
 
「だね。でも餃子が得意って人も要注意だ」
 
「そうかな。餃子はそこそこ手もかかるし」
 
「ていうか宇都宮か浜松だろう?」
 
「消費量か」
 
「どっちも田舎じゃん」
 
「言うな。そういうことは言わない約束だ」
 
「逆にカレーを一から作る人も怖いよな」
 
「そうでもない」
 
「隠し味とか言いだしたらもう容疑者だよ」
 
「そこまでかな」
 
「チョコだの珈琲だのさ。チャツネにトマトだの、隠れてねえじゃんって話にもなるわけで」
 
「長いな」
 
「長いよね」
 
「終わりどころを完全に逃したよね」
 
「逃した。料理ってのは手際なのにな」
 
「そう、要は手際なんだよ」
 
 

お母さんデパート

蝉が鳴き始めた頃に、お母さん専門店へ連れて行ってもらった。

父は朝からそわそわしていて、「嬉しいか? お母さんくるんだぞ?」と幾度も尋ねてきた。嬉しいのは父であって、どちらかといえばわたしは母という存在を購入すること自体、なにかが間違っている気もしていた。

ただわたしの中にある母の像は曖昧で、写真を見れば「この人が優しかった母なのだ」という感慨はあっても、それ以上の思い出は甦ってはこない。

お母さん専門店は駅前に開店して、ちょうど一周年記念セールを行っていた。すれ違うのも困難なくらいに店内は人が多く、当然だが男性客ばかりであった。

ねえお父さん。そう問いかけるが、父はショーウィンドウから視線を外さない。

「ねえお父さん」と半ば叫ぶように、わたしは言った。

「ん?」父はこちらを向いてくれた。額にはうっすらと汗をかいていた。

店内は人々の発する熱のためか、異様に蒸し暑かった。

「なんでお母さんを買うことにしたの?」

「ああ、ほら、もうすぐ小学校でしょう。そろそろお母さんがいないと色々不便かなってね。それにこの店、評判もいいしさ」

「ふうん」

小学校に上がることと母親の必要性はよく分からなかったが、実際父の作るオムライスは卵で包めていないし、カレーですら味が濃かったり薄かったり定まらない。

洗濯はまだしも、掃除は週に一度しかしないものだから、部屋の隅にはいつも埃が溜まっている。

そういうことが解消されるなら、確かに母親の存在は大きいかもしれない。

父と一緒に、ショーウィンドウに納められた母親たちを見て回る。一番人気、というステッカーが貼られているのは、黒木瞳によく似た顔をした母親だ。

百二十万円の値札の横に「オールラウンド系」と書かれている。

背が高くやや骨太の母親は「快活なスポーツ系」とあり、今どき人間でもなかなかいない着物姿の母親は「古典的な清楚系」とある。

父の趣味はどんなものだろうと、そればかりが気になった。

わたしの本当の母は、とても美しい声をしていたように思う。

霧に満ちた森の中から聞こえてくるような、澄んだ声をしていた。だから母の読んでくれる絵本は、どんな物語でも美しさを感じた。

「なあ。このお母さんにしようか」

父が指差しているのは、細身の黒いパンツに淡い黄色のシャツを着た、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「うん。いいと思う」

ケバケバしい化粧をした人や身体のラインを強調させているような人だったらどうしようかとハラハラしたが、この「落ち着いた家庭的万能系」と書かれた女性には好感が沸いた。

混みあっていてなかなか係員は捕まらなかったが、なんとかローンの手続きも済ませて、買い物を終えることができた。

二十分ほど待たされると、店員と並んで母親はやってきた。

「今日からよろしくお願いします」そう言って、新しい母は頭を下げた。

とても可愛らしい笑顔で、わたしは嬉しくなって手を繋いだ。暖かい手をしていた。自然と顔がほころぶ。やはりお母さんは、必要だと実感した。

父も満足げに頷いて、そのまま家族三人でファミリーレストランへ行った。大好きなハンバーグを食べて、お母さんがトイレに行くと、「実はね」と父が教えてくれた。

「実はね、昔好きだった人によく似ているんだよ」

「へー。それであっさり決めたんだ?」

わたしがあきれて見せると、父ははにかんだように頭をかく。

帰りの車では、満腹感と充実感で眠くなってしまった。父と母は笑いあって、いろいろな話に興じている。

後部座席でしばらく眠って、薄目を開けてみるとまだふたりは仲良く話し合っていた。ただ少し話の内容が変わって、わたしは今起きてはいけないと、そう予感した。

「せっかく新しい生活を始めるわけだからさ」

「ええ」

「子どもも新しくしたいよね」

「そうねえ。ほら、二年前にオープンした子ども専門店があるでしょう」

「来週あたり行ってみようか。下取りキャンペーンもやってるだろうし」

わたしは家に着くまで、固く目を瞑っていたのだった。

雨が消す駅と僕と。

暴力的な、という表現がぴったりな雨だった。

とめどなく雨粒たちは路面に叩きつけられ、町全体がけぶっている。

雨筋で視界すら狭まってしまった感覚にとらわれる。

小さな駅だ。

僕は外に出ることはあきらめて、構内のベンチに腰掛けた。

自動改札は六つ。駅員があわただしくバケツを持って走っている。雨漏りだろうか。

隣に女性が座っていて、それ自体も驚いたのだが、朝の通勤時によく見かける顔であることにさらに驚いた。

気安く挨拶しようかためらわれた。こちらは見知っていても、向こうは全く未知な男かもしれないのだ。

「いつも朝、乗ってますよね」

彼女は唐突に、言った。僕が迷っていた台詞を、無遠慮でもなく、ちょうどいい親しげな口調で、言った。

「あ、はい。あなたもですよね」

「こんなにすごい雨になるって言ってましたっけ?」

「いえいえ。想定外ですよ」

そこで女性は品のいい笑顔を見せた。ぼそりと「想定外っておもしろい表現」と言った。

雨音は絶え間なく続いているが、どこか心地の良い響きだった。

そういえば、室内にいる限り雨は心地よいものだったなと、関係ないことを思った。

「雨はお好き?」

急に彼女は聞いてくる。遠慮がちに横目で伺っていたのだが、ずいぶんと彫りの深い目鼻立ちをしている。

「どうだろう。こうして家に帰れないような雨は、少なくとも嫌いですね」

「もしもだけど」

「もしも?」

「この雨はあなたと話してみたいからわざと降らしたとしたら、どう思う?」

僕は首をひねって、意味を考えた。

「とても光栄だけど、雨を降らすことは不可能だし、それに回りくどいと思います」

「なるほどなあ」

女は楽しそうに笑った。

「でもでも、もしもよ?」

「あ、はい。もしもですね」

「さっきから誰も改札から出てこないでしょう」

僕は周囲を伺った。人気はない。

先ほどまで忙しく走っていた駅員も、事務室に引っ込んでしまったのだろうか。姿はない。

「これもわたしが仕組んだことだとしたら、どう思う?」

「なんのためにです?」

「だから、あなたと話したくて仕組んだとしたら」

「光栄ですが、やはり回りくどいかなあ」

そっかまわりくどいかあ。彼女はそう言って立ち上がった。

雨はさらに勢いを増したように感じる。電車は一向に到着しないが、もしかすると運休になっているのかもしれない。

タクシー乗り場を見るが、雨でかすんでいるためによく見えない。

雨粒が路面や駅舎の屋根を叩く音が、シンバルのように反響している。

するとこの場所だけが、世界から切り取られてしまったような、そんな焦燥感に駆られる。

この場所で僕は雨から守られていると同時に、この場所から逃れることはできない。

女は閉まった売店から改札を、円を描くように歩いてからこちらを見た。

遠くて声は聞こえなかったが、もしもよ? と唇が動いたように、見えた。

終えて、選挙。

スーパークールビズっていうとさ、なんかもう紐だよね」
 
「だね。紐で隠すだけ隠すみたいな」
 
「もはや戦後だよ」
 
「戦後かもしれない」
 
「今日さ、朝から鳩がぽーぽーって、鳴いていたんだ」
 
「あるよね。ぽーぽー。ぽっぽー。のリズム」
 
「一定のね。でも今朝はぽーぽー。ん、ぽぽー? みたいな感じでさ」
 
「迷いだ」
 
「鳩の迷い?」
 
「そう。例えば鳩が鳩サブレを見たその瞬間、あれって思うはずなんだよ」
 
「そうかな」
 
「そうだよ。なぜ平和の象徴とか言われているわりに駅には有刺鉄線張り巡らされて、なのに公園では餌を撒いてくれる老人がいるのに、その老人は告発されていると」
 
「だね」
 
「わたしたちの存在意義は何だろうと、鳩だって思うんだよ」
 
「そうかあ。利用されるだけの、人間に好都合な存在かあ」
 
「メロンパンだってそうじゃない」
 
「たしかに。まるでメロンでないという共通認識のもと、誰も反論しないパン。メロンパンは悲哀だなあ」
 
アンパンマンカレーパンマンは戦って敗れれば、言いにくいけど、具が出るじゃん」
 
「出るね」
 
「そうすると手負いだって、わかりやすいじゃん」
 
「メロンパンにはないね」
 
「そういうことなんだよ。石田純一にもそういう面が」
 
「ない。もう二日連続で石田引っ張るのやめろ」
 
投票率が低かったんだって。おいらはね、投票率を上げる方策を一晩考えたんだ」
 
「なるほど。それなら少しだけ聞きたい」
 
「靴下抜きで?」
 
「抜きでだ!」
 
楽天ポイントが貯まるとかは……」
 
「安易だ」
 
「だよね」
 
nanacoポイントで還元というのも……」
 
「同じだよね。根本が」
 
「じゃあ味楽園でチャーハン50円引きという」
 
「そういう特典の問題でなくさ」
 
「じゃあ失楽園かよ!」
 
「そっち方面は石田に任せとけよ!」
 
「おまえが石田言うな言うくせに再燃させてんじゃねよ」
 
「あ、それはごめん」
 
ユニクロ?」
 
「え」
 
「なんか困ったときってとりあえずユニクロいすゞのトラックか、もしくは東芝とか出すと解決するじゃん」
 
「日常生活な。本当に平和な日常な」
 
「選挙は日常ではないかあ」
 
「海外から見るとさ、今回18歳から選挙権が認められたのに、これほどドライに盛り上がらない国も珍しいんだてさ」
 
「いやいやスーパードライは売れている」
 
「うん。ビールどうでもいいし、18歳に飲める権利できたのでもない」
 
「あんたみたいにさ、すぐに欧米では海外ではっていうやついるよね」
 
「事実なんだから。イギリスのEU離脱だってさ、投票率すごかったじゃない。それなのに今回の日本の選挙はせいぜい半分よ」
 
「半分優しさなら十分じゃんかよ」
 
バファリンならな! 違うんだよ 不十分なんだよ!」
 
「そういうこと言うとさ、乙武攻めてくるよ?」
 
「うるせえよ。言葉尻とらえるなよ」
 
「でもさ、争点のない選挙に若者が参加するかなあ」
 
「争点あったじゃない」
 
「ないよ。ユニクロのインナーなんて進化していないのに値上げしてたし、待機児童は大問題なのに待機死亡はどんどん膨れ上がって医療費を圧迫」
 
「やめろ。待機死亡だけやめろ」
 
「若者の、子どものクレジットカードを使って、買い物できる?」
 
「いやまあ、それはできないよな」
 
「それをしているのが今の邪馬台国なんだとさ」
 
「そこは日本でいい」
 
「理不尽だろう? リオってる場合じゃないんだよ」
 
「軽く言うな」
 
「いよいよ憲法は変わるぞ」
 
「時代の流れだよ」
 
「新しい義務でさ、蓮舫の義務とかさ。きついなー」
 
「なんの義務だよ」
 
「まあほら、政治はやめよう。仲良くユニクロ的にファイバードライ、みたいな」
 
「それしまむらだ」

東京都知事選挙

「出ようかと思ってる。出馬」

「おい! まさか有馬?」

「いやね、異種じゃん。異種だし、お馬さんに勝てる気はしないんだ」

「じゃあ何に出るのさ。まさかAKB!」

「もっと正当なさ、知事選」

「おいおい。冗談はシューズだけにしろよー」

マイケル・ジョーダンの話じゃないんだ。なんかすごく古いし」

「都知事選なんか出たらそれこそやられるぞ? 車が知事室だとか言わないとだし」

「まあね」

「記憶なんて全部搾取されるから」

「まあ恣意的な感じもするけど」

「ライバルはどうすんのさ。特に石田純一ダビッドソン」

「ダビッドソンつくと楽勝な感じするよね」

「靴下履いたらクールビズじゃないぞ?」

「そうかもだけど」

「浮気は文科省認定だぞ?」

「いやいや文化がどうこうだった」

「文化祭で浮気かよ」

「言葉尻だけでいくな」

「石田氏のインタビューすごかったよな」

「ある意味ね」

「ネクタイぐっしゃぐしゃ」

「そうなんだけど」

「でもクールビズ

「足元ね」

「ネクタイも売れない。靴下も売れない。景気対策どうするわけよ」

「まあそうかもだけど、子育てに力を入れるんだって」

「誰の子かわからないのに?」

「言うな。そもそも石田の話なんてしたくないんだ。七夕とかさ、そういうことを」

「おいらだったら東京から日本を変えるな」

「出たか。大きく出たな」

「首都移転。推進するぜー。もう袋でいい」

「よくわかんないや」

「池袋。引いた? なら立川。立川すげーぞ。ルミネ興隆、グランデュオ搬送レベル」

「搬送の意味わからないや」

「靴下いらない昭和記念公園

「うん。いるから。靴下こだわりがすごいけど」

「レインボープールで靴下? うけるー」

「靴下忘れろ。もう靴下文化捨ててしまえ」

「靴下ありがたがってるくせにさ、脚に傷を負えば靴擦れだもな。靴下ずれとは決して言わない愚民ども」

「靴が原因だから」

「そもそもさ、靴の上に履いてるじゃん。靴上じゃんかよって」

「うるさい! もう靴下の話はやめろ」

「靴下で不信任案かよー。笑えない」

「こっちも笑ってねえよ」

「そもそもさ、半ズボンはわかるよ」

「何の話だよ」

「七分丈もわかる」

「まあな」

「けどシャツの半袖って半分か? 三分丈だろう」

「そうかもだけどさ」

「ランニングいにたってはひどい話だよ。走れと?」

「まあそうかもだけど」

「スカンツだのガウチョパンツだの、あんた知ってる?」

「知らないなあ」

「一見スカートに見えるパンツだってさ」

「どうでもいいわ」

「スカーチョが短くなるとキュロットなんだよ」

「どうでもいいって」

「世の中に興味を持てよ」

「世の中のそんな些細な一点はどうでもいいんだよ」

石田純一はこう言ってたよ。告白すると、振られたとしても特別な存在になれる」

「あの、ごめん。特別な存在の定義がわからない」

「こうも言っている。三角関係だからカドがたつ。18股くらいになると、もうカドがなくなって丸くなっちゃう。そうすれば争いも起きないんだよね」

「なんの数式だよ。なぞなぞとしての完成度も低すぎるじゃんかよ」

「純一石田を馬鹿にすんのかよ」

「なに世界の、みたいな表現してんだよ。たいしたことやってねえじゃんかよ」

「人生とは、想い出を作る為に、生きること」

「思い出作りで知事やるつもりかよ」

「純一ダビッドソンを馬鹿にすんなよ!」

「したくもなるよ!」

本棚という宇宙

今週のお題「わたしの本棚」

 

 安い組み立て棚だった。初めて自分で買って組み立てた、ホームセンターで買った本棚だった。

 そこに好きな本を収納していった。筒井康隆が構えて、太宰治が鎮座して、阿部公房に庄野順三、そこからアガサクリスティ、ポールオースターに村上春樹が並んで、混然としていたけれど充足感があった。

 自分の心の中の喜びや悲しみ、そういう小さいのか大きいのかわからない世界が、ぎゅっと凝縮された場所が、わたしの本棚だった。

 つぐみ、というよしもとばななの作品が収まったころ、わたしはその作品に感銘を受け、同時に、現実世界にとても不安定な、悲しみを、悲しみに似たかすかな生きる喜びを感じた。

 高校生だったろうか、多感といえば聞こえはいいが、純粋な、不器用な、無知な、愚かな存在が未来を見据えて、少しだけ答えを見たような気がした時期だった。

 とにかくわたしは今いるような小さい器に収まるべきではない。ではもっと大きな器はどこにあるのか、それはきっと、大学なんてつまらない消化試合でなく、挑んでみなければ見つからない、そういう雲の中に答えがあるのだと、わたしは馬鹿なりに決意していた。

 結果的にわたしはなにもしなかった。

 若さなりの道を外れた行為や、思い切った行動はあったのかもしれないが、どれも現実的に有益に、最短距離で結果を求められるような、まさに当時わたしが嫌っていた効率という社会人に求められる結果を残すことすらできなかったわけだ。

 若さってそんなものじゃないかと、今は落ち着いて、当時の自分を暖かく見守れる。

 正しくも間違ってもない。

 ただあなたは無駄な時間を過ごした。

 無駄だった。これは申し訳ないが、自分に厳しく言いたい。そんな時間があったなら、もっと文章を書け。映像を撮れ。なんでもいい。残せ。想像したものを残せ。それをしなかったあなたは、自分は、なにもしなかったと同義なのだ。

 

 わたしの本棚には、今でも宇宙が広がっている。

 吉田修一川上未映子、料理のレシピ本や実用書も増えた。量子力学の専門書も並び、案外本職である心理学の本も並んでいるのだが、やはり若き日に買い集めた太宰の本たちが、わたしを読んでいる気がする夜もある。

 なにもできない日の夜。

 黒い背表紙がきついじゃないのと、わたしは太宰の本に悪態をつくのだ。

お茶で会いましょう

『お茶が、好きなんですか?』

 その紙切れを見つけたとき、わたしは反射的に周囲を見渡した。静かな市立図書館には、適度な数の人がいた。寂れているわけでもなく、混雑してもいなくて、ゆっくりと本を選ぶには最適な状況だった。

 手に取った本は紅茶や日本茶を中心に、たくさんの写真で紹介するものだった。

 前の週にこの町へ引っ越してきて、食器やカップを新調していたら、じっくりとお茶を飲みたくなった。凝り性な性格だからか、お茶を楽しむのなら正確な知識を手に入れようと、図書館へやってきたのだった。

『お茶が、好きなんですか?』

 丸みがあって敵意のない、人懐こい文字だった。パソコンで打ち出された文字に人格は感じないが、手書きの文字には安心できる温かみがあった。

 紙切れはレシートくらいの大きさで、裏返してみると空白だった。黄ばんでいるわけでなく、するとそれほど古くない時期に挟まれたのだと思った。

 少しだけ大胆になって、わたしはバッグからメモ帳を取り出した。一枚破ると、そこに文字を書いてみた。挟まっていた紙片を取り出すと、代わりにわたしの書いたメモを残した。

『お茶好きになろうと決心したところです。』

 読み返してみるとおかしな文章だが、そもそもメッセージがあること自体が不自然なのだからと思い直した。

 本を棚に戻すと、茶葉の種類について念入りに書かれた別の本を借りることにした。

 駅前のスターバックスでコーヒーを飲みながら、借りてきた本をめくった。様々な緑の茶葉が、美しく並んでいた。コーヒーを飲みながら日本茶を選ぶのは、なんとなく違和感があった。

 バッグからメモを取り出して、再度眺めてみた。丸文字だが、これを書いた人物は男性でないかと感じた。柔和で声の小さい男性の姿を、漠然と思い浮かべた。

 たしかに、お茶が好きでなければお茶について書かれた本を、手にしないだろうと思った。すると、この質問自体無意味なのではないかと、わたしは小さく笑った。

 高島屋で煎茶を買ってから、カステラに目を奪われて、それも買ってしまった。早く家に帰ってカステラを食べたいと思って、いつのまにか主目的が変わっていることに苦笑した。

 本に書いてある通りに、急須に茶葉をティースプーン二杯分入れた。湯飲みで冷ました熱湯を注いで、一分待った。タイマーではなく砂時計を引っ張り出してきて、これが実にしっくりきた。お茶を淹れるという行為はどこか儀式のようで、アナログな砂時計はそんな行為によく似合っていた。

 煎茶は適度に渋くて、穏やかな香りが口中に広がった。清涼感は草原のように爽やかで、思わず目を閉じてしまった。

 日本茶はこんなにおいしいものだったかと、三十年も生きてきて気づかなかったことに愕然とした。

 翌日からは仕事にも、購入した茶葉を持っていくことにした。

「なになに? 緑茶飲んでるの?」

 同僚の千佳子は大げさに驚いて、「わたしのも淹れてよ」と迫ってきた。

「嗜好の変化ってやつ」

「それって、加齢現象じゃん」

「失礼な。日本人は和に行き着くの」

「パスタとかコロッケとかサンドウィッチとか、ランチはそんなのばかりでしょ」

 千佳子は得意げに言った。そう言われると、返す言葉がないのだった。

 帰りがけに図書館に寄った。

 期待しながら世界のお茶大辞典を開くと、わたしの残したものでないメモが挟まっていた。

『僕もなんですよ。今度のボーナスで玉露を買うつもりです』

 咄嗟に、わたしは周囲に視線を送った。

 どこかにこれを書いた人がいて、こちらの様子を伺っているのではないかと、そう思ったのだ。

 様々な書物に目を落としている人があちこちにいるが、誰もわたしを見てはいなかった。

 バッグからメモを一枚取り出すと、メッセージを書き始めた。

玉露とはぜいたくですね』

 そこまで書いて、贅沢という漢字がでてこなかったので、紙を丸めた。手書きという作業は思った以上に困難が伴う。

玉露は飲んだことがありません。ボーナスがカットされなければ買ってみようかな』

 ユーモアのある人物だと感じた。図書館を出ると、三日後に出るボーナスで本当に玉露を買ってみようかと、そう思った。

 食後にコーヒーを飲むことが当たり前だったのに、ゆっくりと急須で淹れた緑茶を飲むようになった。抽出を待つ時間が、満腹感にひたれてとても充実したひと時に感じられた。

 その日は夕方から雨が強くなって、図書館に入る頃には足も腕も濡れていた。パンプスを履いてくるべきではなかったと、ため息をついた。

 本の中には、メモと小さな茶封筒が挟まっていた。

猫舌なので、低温でいれる玉露を気に入りました。おすそわけです』

 封筒の中には小さなビニール袋があって、そのなかに美しい深緑の茶葉が入っていた。

 普通なら気味悪く感じるのかもしれないが、その文字を見ると、安心してその茶葉を頂こうと思えた。

『こんな高価なものを! お返しはどら焼きがいいですか? 挟んでおきます』

 そうメモを残した。

 テレビを消して湯を沸かし、四十度くらいになるよう湯を放置した。砂時計を眺めていると、抱えている雑念がするすると落ちていくような錯覚を感じた。

「甘い」

 思わずひとり言がもれた。喉を通るときに高原が浮かんで、華やかな甘味が口に残った。

『出世払いでかまいませんよ。どら焼きも好きですが、かぶせ茶というお茶に興味があります』

 メモを読み上げると、わたしはかぶせ茶について調べた。文字通り藁などで茶園を覆って育成する、高級な日本茶であるようだった。急いで駅前でかぶせ茶を買うと、小袋に移してもらった。店員に味見をさせてもらうと、淡くて静謐な甘味が広がった。

「おいしい」

「熱いお湯で淹れていただくとさっぱりで渋みが強いお茶になります」

「奥深いですねえ」

 羊羹に目を奪われたがそこはこらえて、図書館に戻るとメッセージを残した。

『お返しのかぶせ茶です。どら焼きは厚くて挟めませんでした』

 どんな人物なのだろうか。わたしは迷った末、館内で見張っていることにした。小説を数冊選んで席に座り、読む振りをして書棚を見守った。

 一時間ほど待ったが、料理や飲料に関する書棚にやってくるのは女性ばかりだった。そして世界のお茶大百科を手に取る人はいなかった。

 だが翌日に寄ってみれば、きちんと紙は挟まっているのだった。

『ごちそう様でした。サバンナを感じる味でした。日本茶の世界は広すぎて、アフリカまで飛んでしまいました』

 大げさな文章に苦笑して、わたしはペンを取り出した。

『わたしも草原とか森とか、お茶を飲むと景色が浮かびます』

 そこまで書いて、逡巡した。緑茶で共感できる会ったことのない相手に、一度会ってみたいと思った。少年でも老人でも構わない。話をしながらゆっくりと、緑茶を味わってみたいと思ったのだった。

『駅前に緑茶のカフェがあります。一緒に飲みませんか?』

 心臓の音が聞こえたような気がした。書いてしまうと、途端に期待が不安に変わった。

『僕もサバンナに誘おうと思ってたんです。ではカフェで待ち合わせましょう。日曜日の朝十時はお茶向きだと思いませんか』

『十時ですね。朝のお茶会は優雅ですね。肩に鳩を乗せていきます』

 家に帰っても、心が浮かれていた。見たこともない相手だが、たった一冊の数百ページの中の一ページという確率が、不思議だった。

 眠る前にほうじ茶を淹れて、桜色をした萩焼の湯飲みで飲んだ。心が穏やかになって、自然と笑みがこぼれた。

 日曜日はすぐにやってきて、約束の十分前に店へ入った。胸を強く押されるような緊張はあったが、それ以上に高揚感があった。

 店内にはひとりだけの客が数人いたが、窓際の男性が目的の人物だとすぐにわかった。彼の手には地球の歩き方という本があり、キリンや象の絵とともにアフリカ編という文字が見えた。

「はじめまして」

 予想したよりも少し若そうな、丸い眼鏡をかけた男性が言った。

「はじめまして。鳩を忘れちゃいました」

 そう言うと、彼は頬を緩ませた。

 彼の向かいに腰を下ろすと、メニュー表を眺めた。静岡や狭山や宇治という文字が飛び込んできた。

「まだまだ始まったばかりなんだな」

 そう呟くわたしを、不思議そうに彼は見た。まずはお互いの名前くらい、知らなければなと、そう思った。(了)